2014年10月に最も進んだステージのすい臓がんが発見され、余命数か月であることを自覚している医師・僧侶の田中雅博氏が病床から贈る『週刊ポスト』での連載 「いのちの苦しみが消える古典のことば」。様々な言葉の真意を解説するが、今回の言葉は仏陀による「自己執着という毒矢を抜く」 だ。
* * *
お釈迦様の最初の説法(初転法輪)の話は、今回で四回目です。自己執着こそが苦であり、その原因が渇愛(生殖・生存・死への本能的な欲求)であることを説いたお釈迦様は、次に苦は消滅するという真実を説かれました。
吹き消すという意味の梵語を音写(漢字の音で表現)して「涅槃」と言います。苦の原因は渇愛なので、その渇愛が制御された状態が「涅槃」です。原因の渇愛が無くなれば、結果の自己執着も消失します。苦しみの総括である自己執着が空っぽになることは、苦しみが吹き消されたことになるわけです。
自己執着が無くなった状態を、お釈迦様は「無執着」と言いました。無執着といっても、自己執着が無いという意味であって、自己以外の例えば他人の不幸にも無執着という意味ではありません。実際にお釈迦様は他人の幸せのための利他行を続けられました。
涅槃は「渇愛を制御して無執着になること」と聞いても、すぐにそのようになれるわけではありません。それで次に「苦の消滅に至る道」という真実が説かれます。これは八正道というヨーガです。八正道については次回にまとめて書く予定です。
お釈迦様は、戯論(いのちの苦を緩和しない議論)を話しませんでした。これを「無記」と言います。質問に対して回答を避けたということです。「真実」と「無記」について、キリスト教にも関連した話があります。
新約聖書ヨハネによる福音書十八章によると、逮捕されたイエス・キリストはローマ帝国ユダヤ属州の総督ピラトに対して「真実」という言葉を使います。ピラトはイエスに「真実とは何か」と問います。これに対するイエスの答えは無記、つまりその先の記載が聖書には無いのです。真実は言葉で議論することではなく、行為を導くものなのです。