歌舞伎界に激震が走った──。5月26日、歌舞伎役者・市川右近(52)が来年1月に「三代目市川右團次(うだんじ)」を80年ぶりに復活させ、襲名することを発表した。だが、それ以上に梨園関係者を驚かせたのが、屋号を今までの「澤瀉屋(おもだかや)」から「高嶋屋」に変更することだった。
会見で「高嶋屋になって(澤瀉屋を)離れていくということでは一切ございません」と神妙な面持ちで語った右近だったが、梨園関係者は「これは事実上の独立である」と口をえる。
「決して表立って口に出すことはありませんでしたが、右近は香川照之(50)が歌舞伎界入りしてから澤瀉屋に不満を抱いていて、ずっと不協和音が流れていました。それがついに表面化した」(澤瀉屋関係者)
140年続く歴史ある一門に一体何が起こっているのだろうか。
市川團十郎率いる「成田屋」こと市川宗家の弟子筋にあたる澤瀉屋は、長年、歌舞伎界では冷遇されてきた。しかし、先代・市川猿之助(76、現・猿翁)が『ヤマトタケル』などのスーパー歌舞伎を創設し、“歌舞伎界の異端児”として名を馳せるようになる。
上方の日本舞踊の家に生まれた右近は9歳のときに先代・猿之助のケレン味ある舞台に魅了され、11歳にして澤瀉屋の門を叩いた。部屋子第一号となった右近は、以来約40年にわたって一門を支えてきた。
「先代は自分の力でのし上がった人物ですから、弟子に対しても『血縁なんて二の次で実力がすべて』という考えでした。そのため、梨園に血縁のない国立劇場歌舞伎俳優養成所の卒業生を数多く引き取っては、技術を叩き込み、自らの舞台に抜擢していった。そんな彼らのリーダー的な存在となったのが右近でした」(同前)
2003年、先代が脳梗塞で倒れ、澤瀉屋は窮地に追い込まれる。その際、“長男”として一門を盛り立てたのも右近だった。
「『猿之助(先代)が出ない』となるとチケットも捌けなくなった。そんな逆風の中、右近は先代の役を代わりに演じ続け、一門をまとめた」(同前)
その姿に先代の亡き妻・藤間紫は生前、「右近を芸養子にして猿之助を継がせたい」と進言したこともあったという。右近はあるインタビューでこんなことを語っている。
〈市川猿之助が創ったものが、50年、100年と続いていったときに、師匠が創造された「スーパー歌舞伎」や古典作品というものの価値が見いだされるし、創始者としての猿之助の名前が歴史に刻まれる。だから、僕らがやらなければいけないことは、師匠の名をいかに「歌舞伎年表」に残すかということでもある〉
こうして右近は周囲から「猿之助の後継者」と呼ばれるようになった。