企業と株主が直接対峙する株主総会は、大きな変貌を遂げた。1981年の商法改正で総会屋への利益供与が禁止されると、総会屋の力は徐々に削がれていくかに見えた。商法改正後、利益供与罪の適用第1号として逮捕者を出したのが1984年の「伊勢丹事件」である。現在に至るまで30年余りの「株主総会激動の時代」の幕開けだ。
同年6月、東京地検特捜部により、伊勢丹の秘書室長(当時)と“日本最大の総会屋グループ”と呼ばれた「論談同友会」会長の正木龍樹ほかメンバー5人が商法違反(利益供与罪)で東京簡裁に略式起訴された。
株主総会の1か月前、伊勢丹幹部から5万円相当の商品券を受け取ったことが利益供与に当たるとされた。
同事件を契機に、当局の摘発は続いた。多くの総会屋が引退する一方で、生き残りを図る総会屋がより活発に活動するようになった。“伝説の総会屋”と呼ばれた小池隆一氏が振り返る。
「この法改正により、株主総会の雰囲気がガラリと変わった。与党総会屋の多くが引退を余儀なくされた結果、株主総会が荒れていった。
それまでの企業を綿密に調べ上げて理詰めで経営陣を攻め立てる手法から、ヤジや怒号で総会を混乱させて長時間のマラソン総会へと持ち込むのが流行りとなった。これに手を焼いた企業側は、一度は法改正を機に総会屋への利益供与をやめたものの、前より巧妙な形で復活させるのです」
総会屋が発行する雑誌の購読費や、彼らが経営する「海の家」の利用料名目などで、総会屋へカネが流れるルートが作られたという。
失いかけた力を徐々に取り戻していく総会屋に対して、上場企業において彼らへの対応を一手に担ったのが総務部だった。総務部の総会屋担当者の多くは、「愛社精神が強く、泥をかぶることを厭わない人間」(上場企業の総務部OB)が選ばれたという。
総会屋と直接交渉する立場のため、彼らには危険がつきまとった。殺人事件にまで発展したのが、1994年2月の「富士写真フイルム専務刺殺事件」である。同社専務は自宅前で暴力団組員に刺殺された。
「専務は、総務部長時代に総会屋担当でした。その時、関係を切られた総会屋が逆恨みし、暴力団構成員に殺害を依頼したとされています」(総会屋の動向に詳しいジャーナリストの伊藤博敏氏)