高校野球地方大会が真っ盛りだ。全国に先がけてまず沖縄県では嘉手納高校が甲子園出場を決めた。その一方で、ユニホームを脱ぐ監督もいる。高校野球取材20年のフリーライター・神田憲行氏がひとりの監督を見つめた。
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ここ何年か、お世話になった監督さんの勇退を現場で見届けている。今年の夏も見送った。八重山商工(沖縄県石垣島)の伊志嶺吉盛監督(63歳)である。
八重山商工は2006年に春夏の甲子園に出場、日本最南端の高校の甲子園出場という話題性だけでなくエースの大嶺祐太(千葉ロッテマリーンズ)や金城長靖(沖縄電力)といった選手らのプレーも、多くのファンたちを魅了した。私もそのひとりで、石垣島に通って「八重山商工野球部物語」(ヴィレッジブックス)という一冊の本を書き上げた。
とにかく破天荒な野球部だった。普通、他の学校の選手は監督から「こっちに来い」と呼ばれると全力疾走で駆けてくるものだが、ここの選手たちは歩いてくる。監督がちょっと目を離すと、ノッカー役の選手がノックの球をあらぬ方向に打ち込んでサボろうとする。「規律」というものがほとんどない。しかしそういう雰囲気が彼らに向いていたのか、試合ではのびのびと身体能力の高さを存分に見せつけた。私は沖縄大会決勝で金城長靖が奥武山球場(当時)のスコアボードに直撃するライナーのホームランを今も覚えている。あまりの当たりのすさまじさに記者席で観戦していた者たちが一瞬、言葉を失ったほとだった。
その中心にいたのが、伊志嶺監督である。全国的にも珍しい石垣市からの派遣業務として八重山商工の監督をしていた。少年野球の指導者時代に大嶺たちと出会い、長期計画を立てて野球部を完成させた。頭をそり上げ、野球にのめり込み過ぎてバツ2(監督がバツ2であることを私は初対面の30分ほどで教えられた)、自宅では巨大な水槽で飼うアロワナを「女性と違って魚は逃げんから」と大事にしていた。
指導ももちろん熱心で、まだ日が明け切らぬうちからグラウンドに一番乗りして、大好きな長渕剛の歌を流しながら水をまいていた。大嶺が寝坊して朝練に遅刻が続くと、ユニホーム姿で大嶺の家に入り込み、「祐太、起きろ、練習しゃ!」と寝床で夢うつつな大嶺を揺さぶったこともある。漁師をしていた大嶺の祖父は「あの人の朝は漁師より早い」と呆れた。
夏の甲子園の2回戦では、ぴりっとしないマウンドの大嶺に「お前は死ぬ」とわざわざ伝令を出したこともある。大嶺の返事は「うるさいわ」だった。だれがあの甲子園で、試合中3回しか許されない貴重な伝令の機会を使って、監督とエースが「死んでまえ」「うるさいわ」などというやりとりをしていると想像するだろうか。
大嶺たちと出会ってから20年、あの甲子園に出てから10年、今年が伊志嶺監督の最後の夏になった。春に1勝、夏に2勝が、伊志嶺さんが甲子園で残した全成績である。