開幕が迫ったリオデジャネイロオリンピックのメダルには、古代ギリシャの勝利の女神が描かれているという。ジャズミュージシャンの菊地成孔氏が女子アスリートのエロティシズムについて解説する。
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「一見簡単そうだが、実はものすごく難しいテーマ」というものがある。「信用できるダイエット理論はあるのか?」「心の病は、トラウマと脳とどちらが原因か?」「フェチやポルノの動画は、性犯罪を抑止するか、助長するか?」等々、そのほとんどが精神/身体、健康/病理という二項対立を扱っているが、その極点の一つに「(ここでは敢えて限定的に)女子アスリートの持つエロティシズム。とは何か?」があると思う。
昭和には「健康的なヌード」というクリシェがあり、言葉とは裏腹に、淫靡な意味合い、つまり、あらゆる裸体が性的な欲情の目線で見られているとすると色々とよろしくないので、「これは健康的なのである。溌剌としていて、生まれたままの姿は純粋で、淫靡さが全くない」という合理化を行ったわけだが、この件を掘り下げ、「二次大戦前のドイツには〈裸体運動〉という、自然崇拝に基づいた一種のヌーディズムがあり、一時かなりの高まりを見せたが、ナチスはこれを〈退廃芸術〉としてヒステリックに弾圧して」等と始めると、第一には無駄に長い話になるし、第二には、『ESPNマガジン』誌が恒例としている「アスリートのヌード写真特集号」が、フェミニストから目立った抗議も受けていないことや、我が国の「かわいいヌード」「クールなヌード」感覚、古くはピーチジョンによる文革とも言える「女子目線のセクシー」等の定着により、余りに話が古く、カビが生えているかのように感じる。
しかし実際、「この問題」は、欧州の裸体運動の昔から、どころか、アダムとイヴの楽園追放以降、一歩も進歩していないと私は思う。
「問題は〈欲情させるか、感動させるか〉だ」という人々がいる。なるほどこれは一見物分かりが良さそうに思える。体操選手の余りに見事な演技を見て、レオタード姿がいかに扇情的であろうと、開脚や屈曲を含む、あらゆるアクロバティックな四肢のポーズが、どれほどフェティッシュであろうと、そもそもが異形のレヴェルにまで鍛錬された肉体それ自体がすでにフェティッシュであろうと、ギリギリで感動が勝る。