神奈川県のJR相模湖駅から車で川沿いに15分。コンクリート造りの平屋や二階建てが何棟も連なる施設がある。それが、7月26日未明に起きた大量殺人事件の現場になった障害者福祉施設「津久井やまゆり園」だ。
殺人未遂などの疑いで逮捕された植松聖容疑者(26才)はこの施設の元職員。植松容疑者は警察の取り調べに対し、「障害者なんていなくなればいい」という旨の供述をしているという。今年2月には、衆議院議長公邸に「私の目標は重複障害者が安楽死できる世界」「今こそ革命を」「作戦内容」などと書かれた殺人予告文書を渡している。植松容疑者の中の狂気。その原点は──。
植松容疑者は一人っ子として、東京・日野市の多摩平団地で生まれた。多摩平団地が竣工したのは1958年(昭和33年)、日本が高度経済成長をスタートさせた頃。
団地で3人が暮らすのは手狭になったのか、両親は念願の一戸建てを購入。植松容疑者は生まれてまもなく、「津久井やまゆり園」から約500mのところにある現在の自宅に引っ越してきた。
「聖くんの夢はずっと小学校の先生になることでした。地元・相模原の公立高校を卒業したあと、“教員免許がほしいから”といって都内の私立大学に進学。教職課程をとっていました」(植松容疑者の友人)
しかし、この頃から、植松容疑者の様子は変わっていった。
「はじめはワンポイントで刺青をいれたんです。よほど気に入ったのか、背中から胸、腕にかけて、どんどん彫り足していきました。“彫るのにお金がかかってしょうがない”なんて言ってました」(別の友人)
植松容疑者の父親は、都内の小学校で図画工作の教師をしている。父の背中を見て育った容疑者が教師を目指すのは自然なことだった。大学の教職課程では教育実習も経験した。
「実習では家のすぐ近くの母校の小学校に行ってました。児童数は80人もいない小さな学校です。気さくで明るい聖くんはすぐに“児童の人気者になった”って喜んでいました。でも、結局は教職員免許を取得することはできなかったんです。ものすごくショックを受けていました」(前出・友人)
夢を絶たれた植松容疑者は大学卒業後、大手飲料メーカー関連の配送会社に勤め始める。配送車を運転し、缶やペットボトルを自動販売機に補充する仕事をしていたが、「給料が安い」と半年で辞めた。近所の評判は、礼儀正しくて、優しい青年。しかし、両親とも溝ができていく。
「家族3人暮らしでしたが、4、5年前から親子げんかの声が頻繁に聞こえるようになりました。近所まで響くぐらいの。その直後にご両親は八王子市のほうに引っ越しされ、聖くんが1人、戸建ての自宅で暮らすようになりました」(近隣住民)
フェイスブックやツイッターに、友人と一緒に写っている写真が多数アップされている。皆一様に肌を浅黒く日焼けさせ、威嚇するような目つきで写る友人も少なくない。