8月15日になにを想うのか。毎年甲子園球場で黙祷を捧げているライターの神田憲行氏が考える。
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この原稿を8月15日の前、甲子園取材のために宿泊しているホテルで書いている。大会期間中ずっとホテル住まいをするようになって、今年で23年だ。毎年段ボール箱に資料や本を入れて自宅からホテルに発送するのだが、今年はその中に「絵本」を入れた。
「これから戦場に向かいます」(ポプラ社)。写真と文の絵本で、著者は戦場ジャーナリストの山本美香さん。2012年にシリア内戦を取材中に撃たれ、亡くなった。本は彼女が生前に撮影した映像と書き残した文章から構成されている(一部、取材パートナーであった佐藤和孝氏が撮影)。訪れた国はアフガニスタン、イラク、コソボ、チェチェンなど。彼女はずっと硝煙が漂う街にいたのだなと思う。
砲撃で崩壊した建物、両足を失った子ども、むごたらしい写真のなかで、ふと、1枚の写真に手を止めた。崩壊した建物の前に並ぶ4人の子どもで、みんな笑顔だ。赤いサリーを着た女の子は腰に手を当てて、ちょっとおしゃまなポーズを取っている。この写真を撮っていたとき、山本さんもまた微笑んでいただろうなと想像する。彼女はどんな気持ちでこの写真を撮ったのだろうか。
話は10年以上前の青森に飛ぶ。沢田サタさんのご自宅にお邪魔したことを思いだした。ベトナム戦争の写真で有名なカメラマンである故・沢田教一の奥さんである。当時サタさんは自宅で1日ひと組しか客を取らないレストランをされていた。ベトナムに住んでいたことがある私はどうしてもサタさんとお話がしたくて、予約の電話を入れた。その過程で私がベトナムものを書いているライターであると告げると、「じゃあわざわざ予約なんてしなくてもいいわよ。コーヒーだけでも飲みにいらっしゃいよ」というサタさんのお言葉に甘えて新幹線に乗ったのだった。
居間にはもちろん多くの沢田が撮った写真が飾ってあったのだが、町中のスナップショットや、東南アジアの風景などがほとんどだった。ピューリッツアー賞を撮った有名な作品「安全への逃避」が、窓際のカーテンに隠れるようなところにひっそりと飾ってあった。不思議に思って訊ねると、サタさんは
「だって沢田が本当に撮りたかったのは、普通の人々の暮らしや平和の写真だから」
と微笑んだ。
たくさんの死を見ているかこそ戦場ジャーナリストは平和に鋭くなる……というのは陳腐だろう。世界にはやはり「血」が好きな戦場ジャーナリストがいると思う。
だが山本さんがポーズを付けた女の子を撮ったり、沢田がなにげない市場の日常を撮ったとき、とても穏やかな目をしていただろうと想像する。そしてたぶん、それらの写真は世界にレポートするためというより、自分のために撮っていたのではないかと想像する。戦場の日常の中にあって、改めて自分の立ち位置を確認するために。あるべき世界を忘れないために。