徹底した合理化で企業の再建を果たし、「荒法師」の異名をとった土光敏夫氏。経団連会長、第二次臨時行政調査会長まで務めた土光氏は家庭ではどのような父親だったのか。土光氏は「メザシの土光さん」とも呼ばれたが、それはNHKで土光氏の家庭に入り込んだ際、メザシを食べる姿が映ったことに端を発する。
「親父は若い頃から苦労ばかりした人だった。ぼくは社会に出て働き始めてから、“親父の真似はとてもできないな”と思ったよ」
こう語るのは、土光敏夫氏の長男で、現在は、敏夫氏の母親が創立して同氏も力を入れた学校法人橘学苑の理事長を務める陽一郎氏。不世出の父親を息子が振り返る。
「親父は戦前、戦中、戦後とずっと忙しくしていた。体を動かすのが好きで、若い頃は留学先のスイスで覚えた山登りやテニスに励み、年を取ると自宅の庭で木刀の素振りをしていた。仕事ばかりでほとんど休みはなかったけど、子供の頃、日光に日帰りの家族旅行をしたことを覚えています。写真好きの親父が家族写真をたくさん撮ったけど、全部戦争で焼けてしまった」(陽一郎氏、以下同)
会社ではよく怒鳴り、「怒号さん」と呼ばれた敏夫氏だが、自宅では一転して寡黙な父親だったという。
「親父は明治生まれの頑固者だけど、家庭には仕事を持ち込まず、いつも無口で家族を怒ることはなかった。仕事から帰ると洋館の書斎にこもり、ドイツ語や英語の専門書を静かに読んでいました。子供たちの将来についてどうしろという話もなく、ぼくが直接言われたのは、“中学は歩ける距離のところにいけ”ぐらい。言葉ではなく背中で見せるタイプでした」