小麦色の肌と真っ白な歯のコントラスト──。斉藤慶子が屈託のない笑顔と健康的なビキニ姿を披露した写真は、1982年、女子大生時代にJAL沖縄キャンペーンガールとして撮影されたものだ。
「熊本大学1年生の時に、地元の百貨店でショッピングをしていたら“うちの広告モデルをやらないか?”と声をかけられたんです。軽いアルバイトのつもりで引き受けました」(斉藤。以下「」内同)
その時の広告写真が芸能事務所の目に留まり、キャンペーンガールのオーディションを受けてほしいと依頼される。
「当時は芸能界に特に興味はなく、スチュワーデスになるのが夢でした。JALのキャンペーンガールになれば夢が叶うかもと本気で思ってオーディションを受けたんです」
水着審査で胸が大きく見えるようパット入りの水着を用意するも、指定の水着に着替えさせられた。そんなハプニングも乗り越え、見事に合格。こんがり焼けた肌を作るために撮影の数日前から現地入りした。
「スタイリストの女性から“水着から白い肌がはみ出ているとおかしいから、全裸で焼いてね”と言われ、沖縄のビルの屋上で裸になって焼きました。みんなこうするんだろうなあと思っていたので、恥ずかしくはなかったですね」
水着の写真が世に出ると、本人の思いとは裏腹にグラビアやCM、ドラマなど次々と芸能の仕事が舞い込むようになる。当時は空前の“女子大生ブーム”であり“キャンギャルブーム”だったのだ。
斉藤の知名度を一気に高めたのは、宮崎美子の後任として1983年から出演した『クイズダービー』(TBS系)だった。