自分の「最期」について考えるとき、最も身近な“お手本”となるのは、両親が亡くなった時のことではないだろうか。厳しかった父、優しかった母はどうやって人生を締めくくったのか──。衆議院議員の石破茂氏(59)が、「父の死」に際して見たこと、学んだことを明かす。
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参議院議員だった父の膵臓がんが発見されたとき、もうすでに手遅れの状態でした。鈴木善幸内閣で、父が自治大臣に就任してすぐの1980年秋のことです。
その年の12月に手術を受けましたが、私は手術の前日、父に呼ばれて、「わしが死んだら財産をこう分けろ」などと懇々と説明されました。
その日、父は最後に封筒を取り出し、「これを明日、田中のところに持っていけ」といいました。田中とは、父の親友だった田中角栄・元首相のことです。「これは何ですか」と聞くと、父は「辞表だ。わしは明治の人間だから、死んだ時に辞表が出ていなかったというのでは、天皇様に申し訳ない」といったのです。
翌日、目白にあった田中邸を訪ねて辞表を手渡すと、田中先生は一瞬絶句して、「立派だ」とだけ口にしました。
手術後、医師から「もって2年、短くて半年」と宣告された父は故郷の鳥取に戻り、市内の病院に入院。当時、三井銀行に勤めていた私は毎週末、父の見舞いのために夜行特急で鳥取に戻っていました。
8月の終わり頃、母から電話がありました。その日の朝、父が「田中が見舞いに来てくれてとても嬉しかった。あれは夢だったのか?」と嬉しそうに話していたというのです。「死ぬ前に田中先生に会わせてあげられないか」と母に懇願され、恐る恐る目白に電話すると、田中先生は「わかった。すぐ行く」と短くおっしゃいました。
当時、田中先生はロッキード事件で刑事被告人の身で、東京を離れるには裁判所の許可が必要でした。それでも先生は数日後には父を見舞ってくれました。公判中に地元・新潟に戻る以外で東京を離れたのは、その時が初めてだったそうです。