終身刑の導入そのものは賛成してもいいのだが、死刑廃止・仇討ち復活を称える私としては、死刑の代わりという理由には賛成できない。21年前のオウム真理教事件のことを思い出してみよう。オウムに殺された人の遺族が「オウムの奴らを楽な死刑にしてたまるものか、殺した人数の分、何度でも死刑台に送り、息を吹き返したらまた死刑にし、これを繰り返させるべきだ」と訴えていた。当然の心境だろう。
終身刑は、オウムの連中を国費で生涯面倒を見てやることである。その国費は遺族も税金の形で負担している。同じ空気を吸っているだけでも許しがたいのに、生活費の分担金まで払わされているのである。国家権力の抑圧性、近代国家の非人間性がここに現れている。
私は、法律家たちが現在の法体系にしか目が向かないのが不思議である。少し視野を広げれば、無期刑と死刑の距離を埋めるものがある。「流刑」である。遠島、遠流、島流し、などとも呼ばれる。江戸時代まで千年以上存在したし、明治になっても明治41年(1908年)の刑法改正までは極寒の僻地だった網走が流刑地だった。
これが廃止されたのは、罪刑法定主義(日本国憲法31条、大日本帝国憲法23条も同)による。流刑は刑の内容が明確でない不定期刑であり、罪刑法定とは言い難いからとされる。しかし、少年法の規定による不定期刑もあるし、無期刑だって終身刑だって不定期刑だろう。流刑を復活させていけない理由はどこにもない。
北海道は現在では流刑地に向かない。どこか絶海の孤島がよい。
島の周りには巡視艇を配備するか、機雷を敷設する。無期刑と死刑との中間の重罪を犯した者は、一ヶ月分の生活物資のみ与えられ孤島に送られる。孤島での生活は一切自由。アウトドアを楽しむのも自由。流刑囚同士で互助組織を作るのも自由。科学研究をして新エネルギーを開発するのも自由。これぞ人権主義者の大好きな自由で平等な社会であり、またナチュラルライフでもある。犯罪被害者は加害者と一切の接点を断つこともできる。
日弁連の死刑廃止派の諸氏よ、少しは建設的な提言をしたらどうか。
【PROFILE】呉智英/くれ・ともふさ。1946年生まれ。早稲田大学法学部卒業。日本マンガ学会前会長。著書に『バカにつける薬』(双葉文庫)、『吉本隆明という「共同幻想」』(ちくま文庫)など多数。
※SAPIO2016年12月号