内閣府が昨年1月に発表した死刑に関する世論調査では、「死刑もやむを得ない」という容認派は80.3%にのぼった。それでも日本弁護士連合会は死刑廃止を訴える。彼らに評論家の呉智英氏が新たな提言をする。
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この10月7日、日本弁護士連合会(日弁連)は人権擁護大会で2020年までに死刑廃止を目指すとする宣言を採択した。この宣言案に対し、犯罪被害者の会の顧問弁護士らから強い反対意見が出て大会は紛糾したが、賛成多数で宣言は採択された。
私は死刑問題について30年近い前から発言しているのだが、弁護士など法律実務家が法哲学や法制史について全く無知であることを痛感してきた。それは一面ではやむを得ない。科学技術者が科学論や科学史について何も知らなくても特段問題はなく、英語の通訳が英語史や言語学に無知であっても特に非難されることはないのと同じだからである。
しかし、致死型新兵器開発の是非について考えるのには、冶金技術者や金属研磨技師の見解より軍事科学や戦史の研究家の方が重要なはずだし、英語教育について議論するのには、通訳の達人より教育学者や社会言語学者の方が有効な意見を述べるはずである。これと同じように、死刑問題は、法の適用を論ずる法律実務を超えたテーマなのである。
死刑問題には、今回の大会が象徴するように、人権思想と法制論が基盤にあるはずだ。しかし、その基盤に溯って議論されることはほとんどない。既存の通念や常識を無検証のまま真理だと信じ込んだ上での議論なのである。致死型新兵器開発を国策だから真理だと信じているようなものであり、幼児からの英語教育を国際人育成のための真理だと信じているようなものである。
人権を、政治や国家を超えた人間固有の本源的権利と考えるなら、殺人事件の被害者の身内は「復讐権」の行使を認められるべきである。事実、人間は何十万年もの人類史の中で制度の如何を問わず、この復讐権を行使してきた。法制史の基本書である穂積陳重『復讐と法律』(岩波文庫)にだって、そんなことは書いてある。