今年3月1日、栃木県のとある小学校。除幕式で披露されたのは、背中に薪を背負ったまま切り株に腰をかけ、読書にふける二宮金次郎の像だった。歩きながら本を読むお馴染みのスタイルが、なぜ変わったのか。「二宮金次郎像」研究家の河野哲弥氏が解説する。
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栃木県日光市の小学校に作られたこの像は、金次郎の思想を普及・啓発する団体が寄贈したもの。同団体の代表は地元紙・下野新聞に「歩きながらスマートフォンを操作する行為を肯定しかねない懸念や、歩いて本を読むのは危険だなどという市民の声も聞き座像にした」とコメントした。
「市民の声」が金次郎を「座らせた」のだ。立像が歩きスマホを誘発するとは思えないが……。
2012年1月25日付の毎日新聞によると、老朽化などに伴い、全国の小学校に建立された金次郎像の撤去作業が進んでいる。像の復元に反対する意見として、「子供が働く姿を勧めることはできない」という教師や、「戦時教育の名残」という保護者の声を同紙は伝える。
「勤勉の象徴」のはずが、すっかり旗色が悪くなった金次郎像。反対派の中には、「子供の労働を推奨し、児童虐待につながる」との意見まであるという。
◆明治天皇も魅了された
そもそも、なぜ金次郎像は全国に広まったのか。
江戸時代後期の1787年、現在の神奈川県小田原市に生まれた二宮尊徳(金次郎)は若くして両親を亡くして伯父の家に引き取られ、朝から晩まで働きながら勉学に励んだ。血の滲むような努力の末、20代前半で生家の再興を果たしてから小田原藩家老に仕え、封建社会で疲弊した農村の復興や藩財政の立て直しに貢献した。
そんな金次郎を世に知らしめたのは、没後、弟子の富田高慶が著し明治期に刊行された伝記『報徳記』だ。明治24年には幸田露伴が『報徳記』をもとに『二宮尊徳翁』を記し、その中で薪を背負いながら本を読む金次郎の挿し絵を初めて紹介した。明治27年に内村鑑三が英文で書いた『代表的日本人』では、西郷隆盛、日蓮上人らと並んで金次郎を「日本の五大偉人」のひとりに挙げた。
明治43年には、彫刻家の岡崎雪聲が薪を背負って歩きながら読書する金次郎の銅像を初めて制作した。この像に魅了された明治天皇はわざわざ像を買い求め、現在は明治神宮の宝物殿に保管されている。
その後、昭和初期に富山県高岡市から「銅像で町おこし」というムーブメントが起こると、鍛冶職人の伝統がある同地で作られた金次郎像は「富山の薬売りルート」に乗り、全国的に広まった。戦前には全国各地の小学校などでお馴染みの像となった。
「立って本を読む」金次郎像は、そうして我々の身近になったのだ。