この人に撮られたら一流──戦前から戦後の復興期にかけて、女優たちの間でそういわれた名カメラマンがいた。大正時代に創立された映画世界社(当初は蒲田雑誌社)の専門誌『映画ファン』などで表紙やグラビアを撮り続けた早田雄二である。
名女優とのエピソードには事欠かない。早田が中国大陸へ出征する時には、高峰秀子が「元気でしっかりがんばってネ。東京へ帰ったら又遊ぼー」というメッセージ付きのツーショット写真を送り、軍隊生活中の慰問放送では田中絹代が「橘雄二郎さん(本名)、お元気ですか」と呼び掛けたという。
名だたる女優に慕われ、司葉子や京マチ子は「早田先生に撮っていただくことが女優の登竜門」と口を揃えた。
昭和の大スターである美空ひばりも早田の名前には敏感に反応した。『映画ファン』の編集者だった映画評論家の渡部保子氏が語る。
「人気急上昇中だったひばりさんに出てもらいたくて、半年くらい楽屋などに通って出演交渉をしましたが、スケジュールを切ってくれなかった。でも、『早田に撮らせる』といったら、二つ返事で承諾してくれ、横浜の自宅で1日掛けて撮影しました」
あらゆる大物を惹き付ける早田雄二とはどのような人物だったのか。東映と契約直後、偶然にも早田に「女優になりませんか」と声を掛けられた経験を持ち、その後何度も仕事を共にした三田佳子が振り返る。
「とにかく撮影が早かったですね。被写体としては、ずっと同じポーズを保つのは大変ですし、当時は撮影用のライトがあたるとものすごく熱かったので、とても助かりました」
現在のようにその場で写真の出来映えが分からない時代に、わずか5分程度で撮影を終えていたというのだ。アシスタントを務めていた息子の橘牧男氏が話す。
「1日で何十人も撮る着物カタログの時は、1人につきテストと本番の2枚だけ。でも、失敗がない。若尾文子さんを撮影した写真はすごく反響があり、着物が飛ぶように売れて、そのおかげで京都の呉服店がビルを一軒建てたそうです」