三平は当初、余命1年と言われていたが、半年になり3か月になり…結局、入院して3日目に亡くなった。
「治る病気なら一生懸命治すけど、そうじゃない病気ならすぐに逝きたいね」
生前彼自身が話していた言葉通りの最期となった。
「自分ががんになると、残していく子供のことが心配になるけれど、自分の夫を亡くす方が、もっとショックでした。悲しみというよりも、悔しくて仕方がなかったんです。こんなに早く死んじゃうなんて…。
夫の洋服だんすを開けて、中に向かって『なによ~!!』と言って気持ちをぶつけて、また扉を閉めるんです。夫に泣いた顔は見せたくないし、夫の写真も全部外しました。写真を見ると弟子も子供たちも泣いていたので、しまってしまいました」
それ以降、「お父さんの写真は仏壇だけ」と決めた。そしてその日から香葉子さんは顔を上げて、再び「明るいおかみさん」として、子供や弟子を食べさせるため、夢中で働いて来た。
「こういう商売だから、倒れるとその時からお金が入ってこなくなりますよね。お弟子が40人くらいいたし、次男はまだ9才でした。みんなを食べさせなきゃいけないし、少しでもお小遣いをあげたいから、仕事をしなくちゃいけないな、って。
頭をパーッと洗ってすぐ仕事に行けるように、髪を切ってショートカットにしたことを、今でも思い出します」
そのパワーは、まだまだ一門を背負っていかなければいけないという使命感とともにあるのだろう。76才という高齢にもかかわらず手術と放射線治療に耐え、「病気になっても病人にならない」のポリシーで乗り越えた。昨年寛かん解かいし、今は広々とした海老名家でせっせと動き回る日々。12月に三平の待望の孫が誕生すれば、海老名家はますますにぎやかになる。
「もうじき6人目の孫が誕生します。今、嫁のお腹の中で動いてます。戦中を乗り越え、たくさんの家族に囲まれて、私は本当に幸せだなあと思っております」
撮影■本誌・太田真三
※女性セブン2016年12月8日号