さだまさしは「一般財団法人 風に立つライオン基金」を昨夏、立ち上げた(友人である医師・鎌田實氏は同基金の評議員を務めている)。2011年1月に南九州の新燃岳(しんもえだけ)が噴火した際、急遽コンサート会場に募金箱を設置し、わずかの間に250万円を超える額が集まったことが設立のきっかけだった。地元・宮崎県都城市の市長に手渡すと『避難施設の空調に活用します』と明言された。
新燃岳の噴火には、もうひとつのエピソードがある。実は、この噴火のすぐあとに東日本大震災が起こっている。いわば新燃岳の被災者は世間から瞬く間に“忘れられてしまった”存在だ。そんな中、さだまさしが「決して忘れていませんよ」と訪れたのだ。
「これはね、永六輔さんの影響もあるんです。僕は若い時分、永さんに随分かわいがっていただいたんですが、ある時、こんな言葉を教わりました。
〈まさし、人間は二度死ぬよ。まず死んだ時。それから忘れられた時だ〉
何が辛いって、人は忘れられることがいちばんこたえます。今回、南富良野町を直接訪れたのも、『日本全国、皆さんのことを忘れていない人がたくさんいますよ』と伝えるためです。コンサート、皆さん喜んでいただけるかなと不安な気持ちもありましたが、南富良野町の皆さん、結構、喜んでくださって……。嬉しかったですね」
さだまさしと永六輔。
この不思議な組み合わせに驚くかもしれないが、実は二人の関係は、さだが10代の頃に遡る。デビューする前から40年以上のつき合いだ。
「共通の恩人がいまして、その方に永さんを紹介してもらったんですが、永さん、他人の話をよく聞いていない(笑い)。永さんの中での僕は、しばらくの間、『落語家になりたい青年』という認識でした。ある時、『いや落語じゃなくて、歌です』と訂正したら、『それなら落語みたいな歌を歌いなさい』といわれましたけどね。実際その後、『雨やどり』とか『関白失脚』とか、落語みたいな歌を歌ってますが……(苦笑)」
さだの恩人でもある永六輔が、今年の7月7日に亡くなった。さだにとってもこれは、大きな出来事であり、とてつもない喪失感を伴った。
「永六輔という人物は、不思議な人です。全貌を掴むのが本当に難しい。世間には、『浅田飴のおじさん』としか認識していない人がまだいるようですが、何せテレビ放送が始まった頃の放送作家ですからね。放送文化の開拓者であり、歴史をつくった人といってもいい。それだけじゃなくラジオ文化を根付かせ、『大往生』というベストセラーも出してしまう。
もちろん優れた作詞家です。『こんにちは赤ちゃん』や『見上げてごらん夜の星を』、そして『上を向いて歩こう』。どれも名曲です。人と人とを繋ぐプラットフォームのような役割も果たしていました。永さんという存在そのものが、ひとつの文化といってもいいんじゃないかな」