プロ野球選手の背番号への思い入れは深く重い。巨人には「王貞治の1」「長嶋茂雄の3」「金田正一の34」など、球界最多の6つの永久欠番があり、金田氏は今も愛車センチュリーのナンバーや、ゴルフ場のメンバーロッカーの番号に「34」を使う。長嶋氏は好んで通ったサウナの靴箱で「3」を指定席にしていたという。
だからこそ、移籍市場では背番号が“交渉材料”になってきた歴史がある。
「1996年オフに西武の清原和博がFA宣言をした時、阪神の吉田義男監督が“縦じまのユニフォームを横じまにしてでも獲得したい”とラブコールを送ると、巨人の長嶋監督は“清原君が西武時代につけていた『3』をあげてもいい”と口説いた逸話があります」(球団関係者)
通算317勝をあげ、近鉄の背番号「1」をパ・リーグ初の永久欠番とした鈴木啓示氏も、監督時代の1995年オフ、吉井理人との交換トレードに難色を示したヤクルト・西村龍次に対して、
「俺の背番号『1』をやる」
とブチ上げて話題になった。西村は説得に応じて移籍。背番号は「21」に落ち着いたが、“永久欠番を譲る”という気概が影響したのは間違いない。
その9年後、近鉄球団が消滅し、鈴木氏には新生・オリックスバファローズの球団代表から連絡があり、永久欠番を新球団でも継続するかの打診があったという。鈴木氏は当時のことについて「近鉄での功績で欠番にしていただいたので、新しいチームで継続するのはおこがましいと辞退申し上げた。一報をもらえてオリックスの誠意はわかった。なくなるのは淋しかったけどね」と明かしている。