12月14日は、日本人なら誰もが知る「討ち入り」の日。しかし、日本史上には歴史を大きく動かした仇討ちが多数存在する。極めつけに有名な3つの仇討ちについて解説する。
【仇討ち1】「曾我兄弟の仇討ち」(1193年)
鎌倉時代の武士、曾我祐成(そがすけなり)と曾我時致(そがときむね)の兄弟が、父親の仇である源頼朝配下の御家人、工藤祐経を(くどうすけつね)討った事件。仇討ちは、頼朝が富士で行った巻狩り(大規模な狩猟)の際に行われた。「赤穂浪士の討ち入り」「伊賀越えの仇討ち」に並ぶ“日本三大仇討ち”の一つ。
「17年の年月をかけ父親の仇敵を追い、多くの困難を乗り越え本懐を遂げたことで、曾我兄弟は“武士の模範”とされました。後に仇討ちが武士のしきたりになっていくきっかけや根拠となった最初の事件です」
ただし、同事件は単なる復讐ではなく所領争いの側面もあったと言われている。また、源頼朝の出先で事件が起きたこともあり、「兄弟は頼朝の暗殺も図っていた」とする陰謀説も根強い。
【仇討ち2】「鍵屋の辻の決闘」(1634年)
岡山藩主・池田忠雄が寵愛する小姓の渡辺源太夫に、藩士・河合又五郎が横恋慕。関係を迫るが拒絶されたため源太夫を殺害した。渡辺源太夫の兄・数馬は剣豪の荒木又右衛門に助太刀を依頼。逃亡中の又五郎を伊賀道中の鍵屋の辻で待ち伏せ討ち取った。「伊賀越えの仇討ち」とも呼ばれる“日本三大仇討ち”の一つ。
「渡辺数馬と荒木又右衛門の前には十数人の敵が立ちはだかりましたが、渡辺側がわずか4人で討ち取ったことで評判になりました。この一件で“仇討ちは武士の美学”という観念が成立し、江戸時代以降、仇討ちの記録が急増することになります」