仇討ちは個人的な復讐にとどまらない。歴史を動かした重大事件も、元を質せば仇討ちと言えるものが少なくないからだ。仇討ちは日本の歴史を動かす原動力だった。作家・歴史家の加来耕三氏が解説する。
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日本人にとって仇討ちは真に縁の深い現象だといえる。元禄赤穂事件(忠臣蔵)を持ち出すまでもなく、仇討ちを題材にした小説や映画、テレビドラマが国民の支持を得たのは、日本人の琴線に触れるものがあったからだ。昔も今も、日本人が大切にしていることそれは、「自分が大事にしているものに対する面子」であろう。
鎌倉時代以降の武家社会において、武士の面子といえば、「人から笑われないこと」だった。自分の主君や父親が討たれたのに、何もしないでいることは、面子丸つぶれで嘲笑のネタになる。周囲の人間から軽んじられれば、武士としての処遇にも影響する。人から笑われることは、武士にとっては死活問題だったのだ。
日本人の多くは、仇討ちは主君や親に対する忠義によった行動だ、と思うかもしれない。しかし、それは誤解だ。例えば赤穂浪士のうち、重臣は大石内蔵助以下2~3人だけであり、三分の二の人々は、主君・浅野内匠頭に会ったことさえない下級武士だった。
平安後期に武家が台頭して以降、武士の根底にあったのは面子を維持しながら、伸し上がっていく己れの欲である。平将門に父・平国香を殺され、何度も戦った末に、執念で打倒した平貞盛(生没年不詳)の仇討ちは、子孫の平清盛による平家政権を生み出すきっかけとなった。
平治の乱で敗北した父・義朝の無念を晴らして、平家を滅亡させた源頼朝(1147~1199)は、鎌倉に幕府を開設し、史上初の武家政権を樹立した。本能寺の変で主君・織田信長を葬った明智光秀を、山崎の戦いで討って、天下を統一した羽柴秀吉(1537~1598)も、いわば仇討ちを遂げたと言える。
父親や主君に対する忠心がないとは言わないが、あくまで根底にあるのは、自らの上昇志向である。その結果としての「仇討ち」が、いつの世も歴史を動かしているのである。