教育にも金を惜しまなかった。同志社大学の創設者・新島襄の後ろ楯となり、5000円(現在の価値で約3000万円)を寄付した。庄三郎は日本女子大学設立にも重要な役割を果たす。
実は日本女子大学の創設者・成瀬仁蔵と、『あさが来た』のモデルとなった実業家、広岡浅子を引き合わせたのは、庄三郎だった。娘たちが通う梅花女学校の教師だった成瀬に女子大創設の相談を受けた庄三郎は、浅子を紹介し、5000円の出資を約束する。
だが、庄三郎の名は忘れられて久しい。原因の1つが長男の鶴松だ。中国の炭鉱経営やモンゴルの金鉱開発などスケールは父以上だが、いかにもうさん臭い儲け話に乗り、ほとんどすべてに失敗した。屋台骨の林業をおろそかにした影響もあり、土倉家は没落する。田中さんは言う。
「鶴松に父が持つ厳しさは受け継がれなかった。庄三郎は経済人らしい合理主義者だったからこそ、時代を代表する人たちに頼られたのです。NHKの朝ドラ『あさが来た』に庄三郎が登場するか注目していたんですが、残念ながら出てきませんでした(笑い)」
(監修/ライフネット生命会長・出口治明)
※週刊ポスト2017年1月13・20日号