戦前の大富豪たちは、今では考えられないほどのスケールでカネを稼ぎ、そして使いまくっていた。彼らは、世界と伍していくために邁進していく戦前の日本の映し鏡でもあった。歴史に造詣の深いライフネット生命会長・出口治明氏が監修、忘れられた大物実業家たちの軌跡を辿る。
* * *
1963年、東京都中央区のビルの改築現場から江戸時代の小判が2度にわたって発見された。当時の時価で6000万円相当。その後、小判の持ち主が、この場所で酒問屋鹿島屋を営んでいた鹿島清兵衛(かしま・せいべい)だと判明する。
美人名妓との恋愛で世間の嫉妬と羨望を集めた道楽者に約70年ぶりにスポットライトが当たった瞬間だった。
清兵衛は1866年に大阪の酒問屋鹿島屋で生まれるが、4歳で分家の東京鹿島屋に養子に出される。周囲の期待に応えるように15歳で当主になり、20歳で東京鹿島屋の娘と結婚し、1男3女を儲ける。ここまではよかったが、やがて夫婦仲が悪化。以来、家庭や家業を顧みず、漆絵、蒔絵、笛などにのめり込んだ。
この程度なら金持ちの道楽ですまされただろう。彼の人生を大きく変えたのが、写真との出合いである。幕末から明治初期は横浜や函館などに写真館が開業を始めた写真の黎明期だ。当然、機材も高価で、写真館の利用者も華族や政府高官、大金持ちに限られていた。
そんななか写真技師やお雇い外国人を自宅に招いて写真の腕を磨いた清兵衛は、1895年に玄鹿館という写真館を開店。現在の銀座6丁目に150坪の大きなスタジオを構え、芝居の大道具や小道具を備えた2階建ての豪華な作りだった。もはや道楽の域を超えていた。
当時、大きなサイズの写真を撮影するには大きな写真機が必要だった。清兵衛は、歌舞伎座で等身大の舞台写真を撮影したり、畳よりも大きな印画紙に富士山を写したり、さらには弟たちに写真を学ばせるためにヨーロッパに派遣したりと、写真のためなら金に糸目をつけなかった。
その貢献から“写真大尽”と呼ばれるほどだったが、清兵衛はついに鹿島屋から離縁されてしまう。写真道楽を咎められたわけではない。撮影を通して知り合った新橋の名妓ぽん太と恋仲になってしまったのだ。