憲法25条の生存権は、戦後焼け野原の中から立ち上がろうとする当時の日本人の願いが込められた条文である。
日本国憲法はGHQ案が「下書き」になっていることはよく知られているが、実はそこに25条の「健康で文化的な最低限度の生活」という文言はない。
この趣旨の文言を憲法改正草案として初めて盛り込んだのは、戦後すぐに立ち上がった民間団体「憲法研究会」だった。1945(昭和20)年12月に彼らが公表した「憲法草案要綱」にこうある。
《一、国民ハ健康ニシテ文化的水準ノ生活ヲ営ム権利ヲ有ス》
この条文を付け加えることを提唱したのは、経済学者の森戸辰男であった。ドイツのワイマール憲法に由来する。
しかし1946(昭和21)年2月13日に日本政府に手渡されたGHQ案でも、帝国議会に提出されたときの日本政府案にも、「健康で文化的な最低限度の生活」という文言はない。憲法改正を具体的に議論する芦田均を委員長とする通称・芦田小委員会で、8月1日、この点が議論になった。
森戸辰男は、社会党代議士として小委員会のメンバーでもあった。そこで「健康で文化的な」という文言を付け加えるよう主張し、挿入されることになったのである。
この議論の前の5月19日、皇居前で25万人が集結する「食糧メーデー」が開かれていた。食糧不足が日本を覆い、餓死者が出ていた時代である。そこで「日本国民は健康的で文化的な最低限度の権利を有する」とは、なんと心強い言葉だっただろうか。
日本国憲法が施行されて、最初に憲法25条の法的性格を分析したのは偉大な民法学者の我妻栄である。我妻は25条を「生存権的基本権」と呼び、
《現実の社会において、かかる利益を享受し得ない者に対して、国家が現実にこれを与えることに努力すべき積極的な責務を負託したのだと解さねばならない》
とした。生活保護制度が救貧政策による国家の「施し」ではなく、「国の責務」と明確にしたのである。
ケースワーカーとは本来的に生活困窮者の相談に乗り、自立を支援する仕事である。不安と絶望にある人々を勇気づけ、戦後この国が掲げた理想を受け継く立場だ。私が語ることは現実を見ない理想論だと思われるかもしれないが、憲法25条ができたときの方が現実はもっと悲惨である。目の前の現実が悲惨であればあるほど、理想と希望を人々は必要とする。小田原市のケースワーカーさん、いや全国のケースワーカーさん、あなたたちの仕事は人々に希望を届ける誇りある仕事なのだ。真っ黒いジャンパーなど、あなたたちには似合わない。