波乱に満ちた人生を歩みながら、必死で生きている人がいる──。東京都に住む吉村春江さん(57才)が、自身の半生を告白する。
〈本稿は、「自らの半生を見つめ直し、それを書き記すことによって俯瞰して、自らの不幸を乗り越える一助としたい」という一般のかたから寄せられた手記を、原文にできる限り忠実に再現いたしました〉
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◆「片親と言われたくない」と頑張る母親の言うなりだった小、中学時代
「数奇な運命」「波乱万丈」。私の過去を話すと、決まって人はこう言います。ひとつうまくいき始めると、必ず大きな落とし穴が待ち受けている。その繰り返しでした。事の始まりは、私が小4、弟が1年生のときに父親が亡くなったこと。
冬の朝、「ちょっと、何、これ、どうしたのよ。ちょっとお」と母の普通ではない声で目が覚めると、布団に寝ている父は、もうこの世の人ではありませんでした。
春を待って、母は東京で不動産会社を経営していた叔父を頼って北陸から上京。職場の近くに借りた小さなアパートに住んだのもつかのま。すぐに子供部屋のあるマンションに引っ越し。
専業主婦だった母は、「商業高校をトップで卒業」と自慢していただけあって、あっという間に経理を覚えて叔父の片腕に。かなりの高給取りになったそうです。
母も必死だったのでしょう。仕事と家事でいつもピリピリ。ピアノ、書道、学習塾と次々に習い事をさせられ、私も母を怒らせないことと、いい成績をとること、そればかりを考えていました。
私が中学生になると、「片親だからと言われたくない。高校は〇〇大の付属にして」と言い、「友達をつくるのは入学してからにして」と付け加えました。私は母の言う通りにして、希望校に合格しました。
母は、それはそれは大喜び。「頑張ったかいがあったわ」と満面の笑み。曲がりなりにも、母と私の蜜月はあのときまでだったのだと思います。
◆高2に夏に数学教師と男女の仲になり、母親は半狂乱 やがて結婚
地方出身の母は、都会の私立校を知りません。幼稚園からあるその学校はお金持ちのご子息、ご令嬢ばかり。ガリ勉で入学してきた私は、“下からの子”相手に何を話したらいいのか…。
そんな私の視界に、数学教師のM先生がいつ入ってきたのか、はっきりとした記憶はありませんが、高校2年の夏休み前には男性として意識をしていました。
少し猫背の後ろ姿が寂しそうで、ずっとひとりだった私は、彼に同じ“におい”を感じたのかもしれません。教師と教え子の交際は、いつの時代でもタブーですが、だからこそ、生まれて初めて母に逆らっている快感といったらありません。
と同時に、なじめないクラスメートにも、“教師の女”になったことで劣等感を跳ね飛ばし、一段高いところに立った気分。“彼”になったM先生もまた、制服を着た“彼女”の言うことは何でも聞いてくれました。