松方弘樹(享年74)といえばさまざまな「ヤンチャ伝説」で知られる「豪快な映画スター」というのが、多くの方のイメージかもしれない。だが、その役者人生は決して平坦ではなかった。時代劇研究家の春日太一氏が、本人へのインタビューを追いながら、その波乱万丈な道のりを振り返った。
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そもそも、松方は剣豪スター・近衛十四郎を父にもつものの、役者ではなく歌手を志望していた。
「高校二年生の時にウチの父親と東映の契約更改の時に『学生服を着てお前も来い』と言われてね。それで行ったら東映の大川博社長が『君、映画に出ないか』っていうことになって。ようは社長に会わすために僕を呼んだわけです。父親と母親には『歌を歌うにしても感情表現が必要だから、映画を一本ぐらいやっておいてもいいんじゃないか』って。詭弁なんですけど。
そんないきさつだから映画を続けるつもりはありませんでした。でも、歌手になりたくても、なかなか方向転換が上手くいかないの。というのも、当時は東映と第二東映というのがあって、それで週に二本ずつ映画を撮らないといけない。月に十六本ですよ。そうすると、それだけ主役が要るわけですよ。しかも、それ以前に波多伸二さんという俳優がいらして、主役もしていたのですが、単車の事故で亡くなってしまったんです。
第二東映には高倉健さん、水木襄さん、梅宮辰夫さん、千葉真一さんがいて、健さんが美空ひばりさんの相手役として少しランクアップすることになったので、『もっと若手を』ということで僕が入った。補欠の補欠みたいなもんでしたが、それでも主役をやらせてもらってね。それで次から次へ作品が来ているうちに歌と疎遠になってしまったんです」
その後、松方は東映京都撮影所の専属俳優となり、同じく二世としてデビューした北大路欣也とのコンビで時代劇のホープとして売り出される。が、折り悪く、その時期は時代劇映画に全く客が入らなくなっていた。
「正月作品で時代劇の鬘を被ったんです。そしたら似合うというので、十八歳の時に太秦に引っ張りこまれました。当時は欣也と二人で売り出されました。あいつは『東映のプリンス』、僕は『東映の暴れん坊』ということでね。でも客は全く入らなかった。
当時は台本を覚えるので精一杯でした。五冊くらい抱えているわけだから。顔は同じままで衣装の鬘だけ変えて朝昼晩と一日三班、違う現場を回りました。ですから芝居の勉強というより即実践でした。その代わり現場で下手を打ってばかりいて、僕だけ最後までよく残されていましたよ」