1月26日、田子ノ浦部屋で二所ノ関一門の関取衆とともに「綱打ち」を行なった横綱・稀勢の里は、翌日には明治神宮で1万8000人の大観衆を前に奉納土俵入り。太刀持ちは同部屋の高安、露払いは同じ一門の松鳳山(二所ノ関部屋)が務めた。
イベントの盛況ぶりをテレビ・新聞が大々的に取り上げ、さらに稀勢の里への注目度が上がる──初場所優勝を決めて以来のお祭り騒ぎが続いている。
ただ、そうした光景を眺めながら、こんな不安を口にする協会関係者がいた。
「稀勢が、同じ一門の力士とあんなに一緒にいるところなんて、見たことがない。本当に大丈夫なのか……」
事情を知らない人間にとってはずいぶんと不思議に聞こえる“不安”だ。角界における「一門」とは、部屋同士で構成される派閥のようなもの、という印象が強い。同じ一門のなかでは冠婚葬祭や連合稽古、出稽古などを通じた交流があるのが一般的だ。
ただ、稀勢の里が所属する田子ノ浦部屋は、そうした角界の常識とは大きくズレた「異色の相撲部屋」なのである。前出の協会関係者が続ける。
「あの部屋はとにかく変わっている。他の部屋に出稽古に行くことはないし、よそから出稽古を受け入れることもない。所属力士たちも巡業などで他の部屋の人間と交わろうとしません。
そんな変人揃いの部屋なんですが、それでいて妙な団結力がある。田子ノ浦親方(元前頭・隆の鶴)は、稀勢の里のことをいまだに“横綱”ではなく、“萩原(本名・萩原寛)”と呼んでいるし、稀勢の里のほうもそれに文句をいうこともない。むしろ大関になってからも進んで部屋のトイレ掃除をしていたくらいです」
師匠の田子ノ浦親方は、最高位が前頭8枚目(幕内在位5場所)。幕内上位で相撲を取ったこともないため、“横綱・大関の指導なんてできっこない”と揶揄されてきた。稀勢の里が長く綱取りに失敗してきたことで「師弟の“格”の違いに端を発した確執が原因」と報じられたこともあった。