1971年にスタートし、1988年に製作を中止するまで日活ロマンポルノは1000本を超える作品を公開した。その17年間を通して作品を撮り続けたのは、小沼勝監督(79)ただ一人である。その華麗なる映像世界を高く評価される“鬼才”が、女優たちと歩んだロマンポルノ人生を語り尽くした。
小沼監督は北海道・小樽生まれ。小学生の頃から映画に親しんだ。中学2年で東京に転居し、一浪して日大芸術学部映画学科へ。就職活動では松竹の試験を受けて不合格になるも、大学の掲示版で「日活助監督募集」の告知を見て受験し、合格した。
小沼監督が入社した1961年の日活は、戦時中に撤退していた映画製作を再開して7年が経ち、石原裕次郎の登場で低迷期を脱した頃だった。
「日活撮影所で裕次郎を最初に見たのは入社間もない頃の食堂でした。瓶ビールをグラスに注いで一人で飲んでいました。本当は撮影所では禁酒でしたが、『ビールは酒ではなく水である』と言う人でしたからね。撮影中に飲む劇用の酒も本物でした」(小沼氏、以下「」内同)
初任給は1万2000円。撮影1本の手当は約5000円で、1本100万円クラスの監督もたくさんいた。約10年の助監督生活の中で、小林旭や吉永小百合など日活を支えたスターらとともに映画製作に没頭した。
1960年代後半から映画館の客足が減り、日活は経営難に陥る。ついに1971年の『八月の濡れた砂』(藤田敏八監督)、『不良少女 魔子』(蔵原惟二監督)を最後に製作中止に追い込まれた。