どんなに辛いことがあっても、私は負けない──。そんな強い意志を持った林希美恵さん(仮名・神奈川県・45才)が、自らの半生を告白する。
〈本稿は、「自らの半生を見つめ直し、それを書き記すことによって俯瞰して、自らの不幸を乗り越える一助としたい」という一般のかたから寄せられた手記を、原文にできる限り忠実に再現いたしました〉
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待ち合わせの駅の改札で、男が私に向かって、会釈ともいえない微かすかな首の動きをし、距離を縮めたら、1時間半で手取り8000円が決定。
足を止めて男が携帯を取り出したら、1000円にしかならず、交通費をさし引いたら百円玉がいくつかしか残りません。
「う~ん、ちょっと違うんだけど」
男は携帯で、別の女に変えてくれと、事務所に「チェンジ」を要求しているのです。
私の仕事はデリヘル。デリバリーヘルスの略で、男の住まいやホテルで性的なサービスをしています。始めたのは12年前。33才のときでした。なぜ? それをこれから話します。
◆キャバクラで「小林麻美似」とチヤホヤされ月100万円
バブル──この3文字を聞いただけで切ないような、まぶしいような──私が地元の商業高校を卒業した1990年はその真っ最中でした。
成績のいいマジメな子は大学に行ったり、高卒で銀行や証券に勤める子もいたけど、私にはムリ。高校時代、友達と繁華街で遊んでいると、「うちの店に顔を出してくれたら、1時間3000円あげるよ」と、まあ、スカウトですよね。店のマネジャーに「きみ、小林麻美に似ているね」と言われ、それからは毎日がお祭り。週3日で、月のバイト料が30万円から60万円になり、3か月目には100万円。「麻美ちゃん」の私を目当てに、オジさんたちが指名合戦をし始めたんです。
父親は夕方出ていく私に、「今に後悔するぞ」と顔を曇らせていましたが、母親は「好きにすれば」と言ったかどうか。総合病院の看護師で忙しく、私のすることに口をはさみませんでした。
あの頃の興味は、お金と海外旅行。キャバクラは「月、100万円あげる」という「パパ」が現れたので、あっさり辞めて、そのとき遊びに行ったのがハワイ。初めての海外旅行でした。空も海も、食べ物も車も、目に映るものすべてがおとぎの国のよう。
「パパ」はその後、失踪して行方知れずになりましたが、そんな人は、夜の街にいくらでもいたのです。
そうなったら、またキャバクラで働けばいいだけ。ちょっとお金がたまると、ハワイやフィジー、ニューヨークを自由気ままなひとり旅です。それが夜の街の流行りというか、私のようなキャバ嬢ってけっこういたんですよ。
◆憧れの海外暮らしで待ち受けていたのは貧困と労働