英霊を祀った靖國神社トップの発言が、大きな波紋を呼び、そのあり方が問われる事態に発展している。季刊『宗教問題』編集長の小川寛大氏が、創建150年の靖國神社がなぜ揺らいでいるのかをリポートする。
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「靖國神社に“賊軍”を祀っていいわけがない。もしそんなことになったら、俺は短刀一本で刺し違えてやる!」
ある右翼団体の幹部は、顔を真っ赤にしてまくしたてた。穏やかでない物言いだが、現在いわゆる“右翼の世界”において、靖國神社はここまで人の感情を揺さぶる問題の震源地になっている。
発端は昨年6月、共同通信が配信し、静岡新聞や中国新聞などの一部地方紙に載った靖國神社宮司・徳川康久氏のインタビューだった。内容の柱は、2019年に迎える靖國創建150周年に向けた事業計画や、その意気込みに関することだったのだが、徳川宮司は明治維新の意味合いに関して、こう語ったのだ。
「私は賊軍、官軍ではなく、東軍、西軍と言っている。幕府軍や会津軍も日本のことを考えていた。ただ、価値観が違って戦争になってしまった。向こう(明治政府軍)が錦の御旗を掲げたことで、こちら(幕府軍)が賊軍になった」
靖國神社とは、明治維新の中で行われた戊辰戦争の“官軍”側戦死者を祀るためにできた「東京招魂社」(明治2年創建)をルーツとする。戊辰戦争は明確に「官軍vs賊軍」という対立構図の中で行われた戦争だ。
徳川宮司は、江戸幕府将軍・徳川慶喜のひ孫。徳川家の末裔が“薩長神社”とも呼びうる神社の宮司を務めているのは不思議に思えるが、戦後の靖國神社では旧皇族・華族出身者が宮司を務める例がしばしばあり、その流れで「大きな異論もなく徳川さんが就任した」(神社関係者)という。
しかし明治維新から約150年、現役の靖國神社宮司が「戊辰戦争に“賊軍”はいない」と言わんばかりの発言をしたことで、関係者に与えた衝撃は少なくなかった。賊軍のことを「こちら」と呼んだことからも、その血筋が育んだ“史観”のようなものが垣間見える。