天皇は何と戦っているのか。その答えは、「天皇観」を巡る戦後日本の歩みに隠されていた。このたび、『近代天皇論』(島薗進氏との共著)を上梓した思想史研究者・片山杜秀氏が譲位論争の本質を綴る。
* * *
人間天皇と象徴天皇。2つのイメージが、戦後日本における天皇のありようを定めてきたと思う。だが、この2つはいつも調和するとは限らない。そして今、調和はほころんできているようにも思える。
まず人間天皇とは何か。敗戦から半年も経たない1946年の元日、昭和天皇が詔を出した。天皇は「神話ト伝説トニ依リテ生ゼルモノニ非ズ」。
世に言う「人間宣言」である。それまでの天皇は現人神とイメージされていた。国土を創造した神々の直系の子孫。だから尊いとされた。ところが昭和天皇は、天皇とは一個の人間にすぎないと宣言した。
天皇が人間的に努めずとも、ただ居るだけで象徴と認知されるのが戦後憲法の立て付け。だとしたら、戦後憲法の少なくともその部分には、戦後民主主義よりも戦前の「神国日本」の思想の方が強く影響していると考えてもよい気がする。
仮に何もしなくても象徴天皇は象徴であり続けるというのと、同じく仮に何もせずとも現人神天皇は現人神であり続けるというのとは、よく似ている。国民とのふれあいを第一義とする人間天皇像は、象徴天皇と素直に一体になれないところがある。
そして今のわが国の政治状況を考えれば、象徴天皇を人間よりも現人神に引きつけようとする勢力が存在感を示していると気づく。言わずと知れた日本会議である。