どんなに辛いことがあって私は負けない──そんな思いを持って生きてきた女性が半生を振り返る。東京都の合田清子さん(70才)の告白手記を掲載します。
〈本稿は、「自らの半生を見つめ直し、それを書き記すことによって俯瞰して、自らの不幸を乗り越える一助としたい」という一般のかたから寄せられた手記を、原文にできる限り忠実に再現いたしました〉
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暮らしが落ち着くと身内の誰かが死ぬ。そうでなければ見栄と体裁で血みどろの争い。開業医の娘として育った私は、皮肉にも、喪服と縁の切れない中で生きてきました。
去年の秋の話です。深夜0時を少し回った頃。寝入りばなを、けたたましい電話の呼び出し音で起こされました。
「あのね、ナツコちゃんが今、亡くなったんだって。詳しいことはわからないけど、とにかく伝えたからね」
従妹から、67才の妹の死を知らせる電話でした。
「ああ、そう。ありがとう」
私はそう言うと受話器を放り出しました。亡くなった妹とは、2時間前までこの受話器を握って、大げんかをしたばかりだったのです。
「もう、あんたなんか姉でもなんでもないわ。次に会うのは、誰かの葬式だね」
「そこまで言うか?」
私が言い終わらないうちに、妹が受話器を叩き置きました。
けんかの原因は、いつものように、お金。
「あんたがパパの遺産を盗んだの、知っているんだからね」
「ああ、やだやだ。田舎大学出の男と再婚なんかするから私の取り分がなくなるの」
目と口を半開きにゆがめて“物体”になっている妹の姿が目に浮かび、2時間前、彼女が私に投げつけた言葉の数々が耳の奥にまだ残っていました。
◆継母いじめをする私を妹は見て育った
私は昭和22年、東京都下で代々開業医を続けている家の長女として生まれました。体が弱かった母は妊娠と流産を繰り返し、結婚して10年目にしてやっと授かったのが私。その2年後に生まれたのが妹です。
しかし母は産後の肥立ちが悪く、直後に死亡。乳飲み子を抱えて医者の仕事を続けるのは難儀なことだと、父は知人のすすめで一周忌を待たずに再婚をしました。
私が通っていた学校は、大学までエスカレーターの私立女子校で、給食はなくお弁当。その時期の子供は、「うちのババアが」とか言いつつも、二言目には「親が」という殊勝な言葉が出てきます。お昼は親の悪口と、ちょっとした自慢の場でもあります。
ところが私はその輪の中に入れません。なぜなら、私のお弁当は継母でなく、お手伝いさんが作ったものだから。それを来る日も来る日も、そっくりトイレのゴミ箱に捨て、空腹はお小遣いで買ったチョコレートで満たしていました。