豊臣秀吉は戦国時代から安土桃山時代の大名。農家出身で、織田信長に仕え、「懐で草履を暖めた」エピソードが有名だ。信長亡き後に関白となり天下統一を果たしたが、東京大学史料編纂所助教の村井祐樹氏は「素顔」についてこう指摘する。
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農民から天下人へと登り詰めた戦国時代一の出世者・豊臣秀吉。信長の草履を懐で暖めたという逸話にはじまり、竹中半兵衛ら有能な武将たちを魅了した、気配りと人たらしの魅力的な人物像が一般に伝えられる秀吉のイメージだろう。
しかし、2014年に33通もの秀吉ゆかりの書状が兵庫県たつの市で発見され、これまで知られていなかった秀吉の性格が見えてきた。そこには気配りで人を魅了する秀吉はおらず、ネチネチとしつこい、偏執的な秀吉の姿が見えてきたのだ。
新たに見つかった書状は、功臣「賤ヶ岳の七本槍」のひとりに数えられる、秀吉子飼いの武将・脇坂安治に宛てたものだ。「本能寺の変」から約2年後の天正12年(1584年)の「小牧・長久手の戦い」の頃から「朝鮮出兵」までの約10年間、天下統一の途上に送られたものになる。
秀吉は筆まめであり8000通を超える書状が現存しているが、支配関係の、いわば事務的な内容のものが多く、書状から秀吉の性格を読み取れるものは少なかった。今回発見された書状は秀吉の天下統一の過程を知る貴重な史料になると同時に、新たな秀吉像を提示している。
伊賀攻めの功績で秀吉から伊賀に所領を与えられた脇坂安治は、京都御所用の材木の出荷管理の担当を命じられていた。秀吉は書状でことあるごとに安治に材木をきちんと出すように命じていた。
天正13年、特に7月から8月に出された書状は7通すべてで念を押すように材木出荷を催促している。7月2日の次の書状の日付は7月6日とわずか4日後であり、安治の返信はおろか、おそらく先の書状が安治に届く前に次の書状を書いている。北陸方面に出征していた8月も12、18、25、27日と短い間隔で書状を送り続けている。