宮本武蔵は江戸時代初めに活躍した剣術家。青年期に各地を遍歴して腕を磨き、「二刀流」を編み出した。生涯で60戦以上を闘い無敗だったとされる。晩年は熊本・細川藩に客分として仕えたとされるが東京大学史料編纂所教授の山本博文氏は武蔵に「敗北」があったのではと指摘する。
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二刀流を使う生涯無敗の剣豪で、「巌流島の闘い」では宿敵・佐々木小次郎を一刀で打ち倒した──多くの人が持っている宮本武蔵のイメージは、歴史作家吉川英治の小説『宮本武蔵』によるところが大きい。実は武蔵の事跡を書き記した一次史料はほとんどなく、その実像は明らかとなっていないのだ。
二次史料ながらも武蔵を直接知る養子・宮本伊織の手によるものが、九州小倉の手向山にある『小倉碑文』である。承応3年(1654年)、武蔵の死後9年に建てられた顕彰碑で、武蔵の出自をはじめ、60回以上戦って一度も負けなかったことなどを書いている。ただし、子供が親を敬重するのはあり得ることで、脚色されていると考えるのが妥当だ。
武蔵の伝記である『二天記』は、死後1世紀以上も後の宝暦5年(1755年)に肥後八代城主松井家の家臣・豊田景英がまとめたもので、小説などの「小次郎、破れたり!」の台詞で知られる、巌流島で小次郎が鞘を捨てた場面が記されている唯一の史料である。まるで見てきたかのように詳細に描かれており、史料というより実録ものといった印象だ。
また、「小次郎が一刀のもとに倒された」という結末も疑わしい。決闘の際、立会人を務めた沼田家に伝わる『沼田家記』には「勝負に敗れ気絶した後、蘇生した小次郎を武蔵の弟子達が皆で打ち殺した」という異なる結末が残されている。