歴史上の人物について私たちが持つイメージは、往々にして学校で習った内容や、小説やテレビドラマなどで描かれる姿そのものだったりする。一方、歴史研究の世界では新たな史料が発見され、これまでの“常識”が覆ることがある。明智光秀はライバル大名を次々と滅ぼし、比叡山延暦寺などの寺院まで攻めて天下統一を目指した織田信長の家臣。天正10(1582)年、京都本能寺に宿泊中の信長を襲って死なせ、謀叛人として名を残した。歴史作家の桐野作人氏が光秀の実像について指摘する。
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明智光秀が主君・信長を討った「本能寺の変」。光秀が謀叛を起こした動機は謎で、「怨恨説」「義憤説」「野望説」など諸説ある。
そんな中、私はある史料に注目している。それにより、これまで知られていた光秀像とは異なる一面を垣間見ることができるからだ。
信長の家臣・稲葉一鉄の子孫らが書き残した『稲葉家譜』。そこには光秀を「本能寺の変」へと駆り立てた動機が明記されている。その現代語訳は次の通り。
「……信長は光秀が法に背いたのを怒って呼びつけると、譴責してみずから光秀の頭を二、三度叩いた。光秀は髪が薄かったのでいつも附髪を用いていたが、このときそれが打ち落とされたので、光秀は信長の仕打ちを深く恨んだ。謀叛の原因はここに起因する……」
光秀は附髪=カツラを落とされたことを恨んで信長を討ったというのだ。月代を剃り髷を結った武士のカツラ姿とは、イメージしづらいものがあるが……。
通説では当時光秀は55歳。実は光秀の年齢について「67歳だった」とする説があり、近年はこちらのほうが有力となっている(*)。67歳であれば、髷が結えないほど禿げていたとしても不思議ではない。
【*:55歳説は『明智軍記』によるものだが、そもそも江戸中期に作られた軍記物で史料としての信頼度は低い。一方、67歳説は江戸初期に作られた『当代記』による。作者は家康の外孫・松平忠明と言われており、脚色がほとんどなく史料としての信頼度は比較的高い】
光秀が当時67歳だと考えると、腑に落ちるエピソードがいくつもある。