大相撲春場所での稀勢の里優勝の話題が連日ワイドショーなどで紹介されているが、出てくるのは茨城・牛久の両親や角界での“育ての親”であり、稀勢の里が「先代」と慕う鳴戸親方(故人、元横綱・隆の里)の話が多い。
ただ、先代の女将さんは存命だというのに、横綱昇進や優勝へのお祝いのコメントすら報じられない。そこには“ややこしい事情”があった。
2011年、稀勢の里にとって大関獲りのかかる九州場所を目前に控えた11月7日に先代の鳴戸親方が急死。部屋付きだった西岩親方(元前頭・隆の鶴=現・田子ノ浦親方)が「鳴戸」を襲名して部屋を継承することになった。
「周囲は当時現役だった若の里(現・西岩親方)が部屋を継ぐものだと思っていました。隆の鶴は幕内経験わずか5場所だった一方、若の里は関脇が最高位と実力もあった。ところが本人が現役続行を望んだこともあり、先代の未亡人が隆の鶴を指名して部屋の継承が決まった」(後援会関係者)
その背景には、様々な思惑が交錯していた。折しも年明けすぐに相撲協会の理事改選が控えており、若の里は協会非主流派で土俵改革を掲げる貴乃花を慕っていた。
「協会主流派の親方衆は、鳴戸の票が貴乃花に流れることを防ぎたかった。頑固一徹の若の里よりも、隆の鶴の方が手なずけやすいと判断したのでしょう。先代の夫人としても部屋に入ってくる土俵維持費や力士養成費を自分が差配していく上で、隆の鶴のほうがやりやすかったと考えたのではないか」(同前)
年寄名跡は所有する親方が亡くなってから3年間は、遺族による所有が認められている。隆の鶴が部屋を運営しながら、「鳴戸」の名跡証書は先代夫人の手元にあるという状態が続いていた。