3月末まで『石原プロモーション』で常務取締役を務めていた仲川幸夫氏(77才)が、石原プロに入社したのは1977年10月のこと。
それ以降、毎日の業務内容や石原裕次郎さんはじめ俳優陣の様子などを手帳に克明に記録してきた。40年分の手帳は段ボール箱をいっぱいに埋めるほどの数だ。ページをめくりながら、仲川氏は初めて出勤した日を思い起こした。仲川氏は「石原裕次郎の最後のマネジャー」として知られる。
「当時も東京・調布に事務所がありましたが、事務所とは名ばかりのプレハブ。裕次郎さんはお気に入りの赤いソファベッドに寝そべっていました。そこで、新入りの私が“どこまでできるかわかりませんが、精一杯がんばります”と挨拶すると、第一声は“それじゃあ困るよ!”と。“オレのことは構わないけど、若いのがいっぱいいるから、そいつらのことはちゃんと面倒見てやってくれよな、頼むよ”って言うんです。天性の兄貴肌の人でした」(仲川氏)
石原プロの俳優たちは裕次郎さんに深い尊敬の念を抱いている。渡哲也は特に顕著だ。
「裕次郎さんと渡さんが出会ったのは、日活撮影所の食堂。渡さんが挨拶に向かうと、裕次郎さんは立ち上がって“きみが渡くんか。がんばって”と手を握ったといいます。スターには横柄な態度の人が多い中、裕次郎さんは違った。それに渡さんは感激して、以来兄弟のような絆で結ばれたんです」(芸能関係者)
固い絆は仲川氏をはじめとした石原プロの社員・スタッフたちも同様だった。
「裕次郎さんが人を叱ったり怒ったりするところを一度でも見たことがありません。いつも朗らかで明るく笑っていました。
入社直後、熱心な裕次郎さんファンが事務所に電話をかけてきて、一目見たいってしつこいもんだから、撮影場所を教えてしまった。当然、ロケ地に人が集まってしまいました。それでも裕次郎さんは怒らず、代わりに私をおっちょこちょいの『おっちょこ』って名づけました。裕次郎さん、あだ名をつけるのがうまいんですよ。しばらく経験を積んで、ミスが少なくなってからは、でっぷりとしてきた私のお腹を見て『ポンポコ』に変わりました」(仲川氏)
石原プロは「情の会社」だ。所属など関係なく、俳優やスタッフには腹一杯食べさせる。同じ釜の飯を食べ、食を通じて結束を深めていく。石原プロが東日本大震災や熊本地震の被災地で炊き出しを行ったのも、「みんなで満腹になるまで食べて笑って、それが幸せだ」という裕次郎イズムを引き継いでいるからだ。
仲川氏の手帳を覗くと、裕次郎さんが休みのたびにハワイに足を運んでいたことがわかる。父親が海運会社に勤めていたこともあり、幼少から小樽(北海道)や逗子(神奈川県)で育った裕次郎さんのそばには、いつも海があった。
「自分が操るヨットに知り合いが乗ると喜ぶんです。まるで子供みたいに、“なァ、楽しいだろう? おもしろいだろう?”と大はしゃぎで。スタッフの私も、何度も裕次郎さんのヨットに乗せてもらいました。