「子どもたちのため」「格差解消のため」という美辞麗句で、教育へのさらなる税金投入が議論されている。しかし、作家の橘玲氏は、それは“壮大な無駄”だと指摘する。
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民主党政権で公立高校の授業料が無償化されたが、こんどは東京都が私立高校の授業料の実質無償化を発表した。「教育国債」で大学の授業料をタダにすべきだ、と主張する教育者もいる。
この問題を考えるポイントは、教育の無償化には税の投入が必要だが、そのお金はいったい誰の財布に入るのか、ということだ。もちろん、「未来を担う子どもたちだ」というだろう。だが、お金を受け取るのは子どもではない。教育サービスの対価として、税は教育者に支払われるのだ。
コメ農家が、「日本人の健康のためにコメを無償化せよ」と主張したとしよう。この場合、税の受益者が国民ではなくコメ農家であることは誰でもわかる。
それに対して教育をめぐる議論では、受益者は子どもで、(税金を受け取る)教育者は“善意の第三者”に納まっている。私はこれを詐術の典型だと思うのだが、なぜか指摘するひとはほとんどいない。
もっとも教育者は、自分たちが税金を受け取ることを正当化するために、それなりの理屈を用意している。彼らは、「所得格差が教育を通じて貧困を連鎖させる」と力説する。