21年前、京都の山間部の町を安楽死騒動が襲った。町で絶対的な存在だった院長が殺人容疑で書類送検されてしまう──。この1年、欧米諸国の安楽死現場を歩んだ筆者が見たものは、「個人主義」の価値観から生まれた死の世界だった。疑い、納得し、時には、共感した。
だが、すんなり適応できない日本人的なるDNAが、筆者に隠れていた。その正体を知るため、または母国・日本の「集団主義」から生まれる死の観念を知るために、ジャーナリスト・宮下洋一氏は現場に赴いた。
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パタパタパタパタパタ…… 「こんな所に、ヘリが飛んではるで」 住民たちは、空を見上げた。普段は静寂な町が騒々しい。テレビをつけると、地元の田園風景が上空から映し出されている。人口約7400人(当時)の深閑とした田舎町に、張りつめた空気が立ちこめたのは、今から21年前のことだった。
1996年4月27日、国保京北病院(現・京都市立京北病院)の山中祥弘(よしひろ)院長が、当時48歳の末期ガン患者・多田昭則さん(仮名)に筋弛緩剤を点滴の中に投与し、死亡させた。1か月後、内部告発によって、警察が捜査に乗り出し、6月に事件が表面化し、報道が過熱。その後、殺人容疑で書類送検されるが、翌年の12月12日、嫌疑不十分で不起訴処分が決まった。