【書評】『感性文化論 〈終わり〉と〈はじまり〉の戦後昭和史』/渡辺裕・著/春秋社/2600円+税
【評者】井上章一(国際日本文化研究センター教授)
市川崑の映画『東京オリンピック』は、オリンピック映画の傑作とされている。政府筋からは、日本人の活躍をあまりとりあげていない点などが、批判された。それで、文部省も、一度はきめた推薦をとりけしている。だが、芸術としての評価はゆるがない。
そんな作品に、著者は今日的な観点から、注文をつけていく。たとえば、開会式の入場シーン。映画は、その場でながれた音楽も収録しているかのように、画面を構成した。しかし、じっさいの入場行進では、べつの音楽がひびいていたことを、著者はつきとめる。競技の映像についても、オリンピック終了後にあとで撮影した箇所が、あるという。
今ふりかえれば、とうていドキュメントとは言いがたい。一種の「やらせ」ではないかと、著者はいう。だが、批判をするために、映画の作為をいちいちあばいているわけではない。
著者は、画面に虚偽があると感じてしまう自分自身を、問いつめる。どうやら、一九六〇年代の人びとは、自分がひっかかったところをうけいれていたようだ。なのに、なぜ自分はわだかまりをおぼえてしまうのか。「やらせ」に違和感をいだく現代人の感受性は、いつどのように形成されたのだろう。こうして、著者は歴史の古い層をさぐっていく。