〈家族の絆がなければ、精神的な健康を保つことは困難だったかもしれない〉――前都知事・舛添要一氏(68才)の話題書『都知事失格』(小学館)には、そんな一文がある。舛添氏が味わった転落の日々、その反省と後悔は同書に詳しく綴られているが、夫を傍らで支えた妻・雅美さん(53才)の心労は、どれほどのものだったろうか。雅美さんに話を聞いた。
〈ふたりの出会いは、舛添氏がまだ東大助教授時代だった約30年前のこと。聖心女子大学を卒業後、美術館の学芸員を務めていた雅美さんは、「美術関係以外のことも勉強したい」と舛添氏が主宰していたゼミを聴講した。その縁で研修室を手伝うことになった。当時、既に“バツ2”だった舛添氏とは15才差。7年の交際を経て、1996年に結婚した。〉
なんで結婚したのかしら。いつからか、この人と結婚しないと、もうしないだろうと漠然と思っていたのは確かです。たぶん、彼のバイタリティーに惹かれたんだと思います。あの人といると、「こんなことまでできちゃうんだ」と思う時がある。
私は、おっとりとした性格だったので、前のめりに進む彼を見て、私も何かできるかもしれない、と。主人の女性関係について、過去、散々報道されました。気にならないといえば嘘になる。けれど、女性の影を感じることはなかったですね。
つきあっているときは「これ絶対、女いるでしょ」って思うときはありました。でも、そのときは私も別のかたとデートしたり、お見合いしたりしていましたし(笑い)。
ホントにあの人、モテてたのかしら。ここだけの話、知り合った時は、「この人負け犬だな」って思っていたんです。学生たちからは「先生は、離婚してばかり」とよく茶化されていたし、結婚後もすぐに仕事を辞めちゃいました。
〈6か国語を操る“気鋭の学者”と聖心女子大出身の“お嬢様”。その結婚生活は、すぐに暗転する。舛添氏は、東大の旧弊を批判して辞職。その後、評論家として身を立てるも、そこは不安定なフリーの身。雅美さんは、個人事務所の経理を務めて夫を支えながら、さらには北九州で暮らす義母の介護も手伝った。そんななか、2000年に長女、2003年に長男を授かる。〉
お義母さんが亡くなるまでの4年間、心身共に本当によく乗り越えられたなと思います。週末は向こうでお義母さんの介護をして過ごし、週明けに戻って来るの繰り返し。嫁姑関係に陥る以前に、お義母さんの具合がよくない。私のことが誰かわからなくなって、「みずえちゃん」と呼ぶ。たぶん、幼なじみのお名前だと思うんですけどね。
主人も一緒でしたが、添い寝するのは私の役目でした。何か起きたらどうしようと思うと夜も寝られませんよ。夜中もお義母さんの寝息を確認したりしてね。亡くなる直前は、娘がお腹にいたから苦しかった…。案の定、出産と葬儀が重なって、「生まれました」と連絡したら、主人は「今、火葬するところ」ですって。お義母さんの最期がわからないから、寂しい思いは残っています。