映画史・時代劇研究家の春日太一氏がつづった週刊ポスト連載『役者は言葉でできている』。今回は、津川雅彦が松竹を退社後、テレビに活路を見出し、悪役をやることで演じることに身が入るようになった時代について語った言葉を紹介する。
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津川雅彦は1960年代前半、大島渚・吉田喜重ら松竹若手監督による「松竹ヌーベルバーグ」の作品に立て続けに出演する。
「最初は吉田監督の『ろくでなし』だった。仕事にあぶれて休みの日に演技事務でぶらぶらしてたら、喜重さんの台本が置いてあった。これが面白くてね。早速監督に出演交渉したらもう会社が川津祐介で決めてるという。『会社が押し付けた役者と、あなたの脚本を読んで「やりたい」と言ってる役者と、どっちとやりたい?』って説得した。その後は大島、吉田両監督が交互に使ってくれるようになった。
大島監督の『日本の夜と霧』の時は慣れない全学連の学生役で、僕の演説に野次を飛ばすエキストラで出た本物の学生たちの方がリアルで素晴らしくて、非常に傷ついた記憶がある」
松竹を退社後は、大映や東映で叔父のマキノ雅弘監督の時代劇や任侠映画に出演する一方、テレビに活路を見出していく。
「松竹から『君では観客が入らないし、イメージ悪いから辞めてくれ』と宣告されて首になった。それで叔父のマキノ監督が映画に出してくれたんだが、いつまでも頼っているわけにもいかない。そんな時にテレビから話があった。当時は、映画の役者がテレビに出るのは致命的で、落ち目の象徴だったんだが、背に腹は変えられないからね」
そうした中で、1972年のテレビ時代劇『必殺仕掛人』に始まる「必殺」シリーズの悪役として立て続けにゲスト出演、毎回強烈な印象を残していく。