どんなに歴史に疎い人でも、1600年の「関ヶ原の合戦」は知っているだろう。「天下分け目の」という形容詞で呼ばれる関ヶ原の戦いは、歴史小説や大河ドラマでも大事なシーンだが、どうやら真実はあまりドラマチックではなかったようだ。
1600年、豊臣秀吉亡き後に東軍・徳川家康と西軍・石田三成が天下を分けて戦った「関ヶ原の合戦」は、西軍10万と東軍7万がぶつかった大合戦として、知られている。陣形としては西軍が相手を囲い込む「鶴翼の陣」を敷き、必勝の布陣と思われたが、西軍・小早川秀秋が秘かに家康と通じていた。
ただ、小早川はなかなか「裏切り」を決断しない。業を煮やした家康が小早川の陣に脅しの鉄砲(いわゆる「問い鉄砲」)を放って催促。すると小早川が西軍を急襲、戦いは一気に決着へ──徳川勢と豊臣勢の狭間で、一人の“小心者”が歴史を変えたというあまりに有名なエピソードだ。だが、近年の研究では天下分け目の合戦の経過は全く違ったものと考えられているという。別府大学文学部史学・文化財学科教授の白峰旬氏がいう。
「『問い鉄砲』は後世の史料になって初めて登場し、同時代の一次史料にはまったく出てきません。東軍の武将・石川康通と彦坂元正の連署状には開戦と同時に小早川が裏切ったとあり、今ではそれが歴史的事実と考えられています。関ヶ原は石田方があっさりと負けた戦なのです」
合戦の舞台もドラマや映画で描かれるような広大な野原と思いがちだが、それも違っているという。