生憎の雨がもたらした、微笑ましい光景だった。7月24日、天皇皇后両陛下は、那須御用邸(栃木県)での静養のため那須塩原駅に降り立たれた。
「集まった人々から“お帰りなさい!”と声をかけられると、両陛下は一層の笑顔で応えられていました。雨が降っていたため、両陛下はそれぞれ傘を差されていたのですが、お車に乗られる直前に美智子さまが傘をたたまれて、少しの間、陛下の傘で相合い傘をされたんです。沿道の人々からはうっとりとしたため息が漏れていました」(皇室記者)
しとしとと落ちくる雨粒。それは美智子さまには涙雨に思えていたかもしれない──。
聖路加国際病院名誉院長の日野原重明さん(享年105)が7月18日、この世を去った。100才を超えてなお患者と向き合い、精力的に講演活動なども行い、「生涯現役」を貫いた名物医師だった。日野原さんの次男・直明氏が最期の日々を明かす。
「100才を超えるまで父は毎日元気に病院や講演会に出かけていましたが、ここ最近は家の中でも車イスが必要でした。ベッドの上で一日を過ごすことも増え、食事もアイスクリームや流動食になっていました。柔軟な発想力を持ち、好奇心旺盛で誰からも愛された、明るく偉大な父でした。亡くなった翌日には、侍従長を通じて、両陛下からお悔やみの言葉をいただきました」
実は日野原さんと両陛下、特に美智子さまとは長く深い交流の歴史がある。
「日野原さんは、ちょうど100才を迎えた2011年から『10年手帳』をつけ始めました。それは向こう10年間、つまり110才までの予定を書き込んでいくというもの。自身の誕生日や聖路加病院の創立記念日と並んで、はじめに10年先まで記入したのが、10月20日の美智子さまの誕生日パーティーだったそうです。毎年、皇居にお招きを受けていた日野原さんは、“これは絶対に外すことのできない大切な記念日なんですよ”と周囲に話していました」(病院関係者)
1911年、6人兄弟の次男として山口県で生を受けた日野原さんは、京都帝大医学部を卒業し、医師としてのキャリアをスタートさせた。1941年に聖路加国際病院内科に赴任。美智子さまとの運命が交錯するのは、それから20年近く経ってからのことだった。
「美智子さまのお名前が皇太子妃候補として浮上した1958年頃、美智子さまの母である正田富美子さんが、日野原さんの元を診察に訪れたのがきっかけでした。富美子さんは、娘が民間から皇室に嫁ぐという前代未聞の事態に、プレッシャーから体調を崩されていて“美智子に皇太子妃がつとまるでしょうか”と日野原さんに不安を吐露することもあったそうです」(ベテラン皇室記者)
当時皇太子だった陛下の強いお誘いもあり、その後無事にご婚約。それに先立ち、宮内庁に提出する美智子さまの健康診断書を作成したのも日野原さんだった。