「そうめんなんて、茹でてツユに付けて食べるだけだろ」などと思っているあなたはそうめんの一面しか知らない。日本そうめん100年史をひもとくと、かなり珍妙な料理も現れて──。食文化に詳しい編集・ライターの松浦達也氏が解説する。
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前回、国内におけるこの百数十年のそうめん事情と世相を新聞の過去記事からひもとこうとしたところ、昭和初期までで紙幅(※紙ではありませんが、目安の文字数)を使い果たしてしまった。
江戸時代に夏の風物詩として庶民の口に届くようになったそうめんは、明治に入り、名産地を数多く持つ関西版の紙面で存在感を増し、その後、関東でも展開されるようになった。しかし1923(大正12)年に起きた関東大震災以降、広告を含めた新聞記事から「そうめん」の4文字は姿を消す。再び紙面で存在感を増してくるのは、昭和に入ってからのことだった。
1930年代、昭和恐慌などの影響もあってか、保存性の高いそうめんが再び脚光を浴びるようになる。1935(昭和10)年には、そうめん3把を寒天1本で寄せるという「氷そうめん」が紹介された。さらに米、味噌、醤油、塩などの日用品に切符制が導入された昭和15年には5本の寒天で1把のそうめんを固めた「そうめん寄せ」が掲載される。ちなみにこの量で5人前。ひっ迫した食糧事情が伺える。この翌年1941(昭和16)年にはそうめんも配給の対象となり、以降「そうめん」という文字が紙面に登場するのは20年以上先の1960年代を待たなければならない。戦後復興は一日にしてならず、だったのだ。
戦後、そうめんの復活は終戦から17年経った1962(昭和37)年のことだった。「ひやしそうめん」としてそうめんの作り方を、「辻留」の辻嘉一が紹介している。特に変わったところのないオーソドックスなレシピだが、昭和30年代は現在まで続く近代家庭料理の基礎が作られた時期。基本の型が再認識される時期だったのだ。
もっとも昭和40年代に入ると様相が変わってくる。例えば、1969(昭和44)年には「ピーマンそうめん」なる珍妙なメニューが紹介されている。「そうめんをゆでたピーマンにつめ、ゴマだれでいただくものです」と紹介されているが、なぜそうめんをピーマンに詰めて茹でるのか。意味がわからないし、誰が提案したメニューなのかも書かれていない。