いよいよ幕切れが近付いてきた、その段階でドラマの評価が急変するのは稀だ。ドラマウォッチを続ける作家で五感生活研究所代表の山下柚実氏が指摘する。
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「稀有なくらい、中だるみ感が少ない朝ドラ」──『ひよっこ』について私はコラムでたしかにそう書きました。あれはまだ太陽がギラギラしていた8月の時期。その時点で、まさか9月に入ってからの展開がこうなるとは……予想しなかった。
半年にわたるドラマの最後の「1か月」が「それまでの5か月」と、こうも質の違うものになるとは。時代設定が雑になってグダグタにたるむとは、ちょっと想定外。
象徴的なシーンを一つ……元舎監の愛子と大女優・世津子が、あかね荘の一室で同居し、ドタバタと足を絡めて床の上にころがりプロレスごっこに興じる。いい年をした中年女性同士が、四の字固めと逆四の字固めを掛け合って、はしゃぐ。
ありえない。
たしかに昭和40年代、プロレス人気はありました。でも良きにつけ悪しきにつけ、あの当時は性別、年齢、職業などの出自や属性によって「振る舞い方」に違いがあり、祖父は祖父、親は親の役割を担っていた。大人は大人、都会の女優は女優としての振る舞いがあり、プライドがあり、生きる型のようなものがあったはず。
プロレスごっこで空手チョップ、ドタバタ床をのたうち回るというのは小学生あたりの子供担当だったはず。5ヶ月かけてコツコツと描いてきた「昭和」の風景や雰囲気。それに沿った人物像を作りエピソードを積み重ねてきたのに。最後の1ヶ月でいとも簡単に手放してしまうとは……。
そもそも『ひよっこ』は物語の軸が昭和という時代にある。
みね子の父は家計を支えるため田舎の農家から東京へ出稼ぎに。家族のために必死に働き、厳しい環境の中で記憶喪失になり失踪。みね子は金の卵として上京し、働きながら父を探し回った。そして大女優・川本世津子と記憶を失った父が、まるで夫婦のようにして東京で暮らしているのを発見し……という、今より貧しかった時代を背景に、複雑な出会い方、衝撃的な展開を描いてきたはずです。
女優・世津子は、いわば東京・非日常の象徴。田舎・みね子たちの日常との対比でもある。そうした重要な軸を、テキトウにあしらってしまえば描いてきた世界は壊れてしまいませんか?
もろちん「ドラマは作り話」「フィクションを楽しめばいい」「たかが娯楽」という声もあるでしょう。しかし、娯楽とはいえ約束事は必要。そうじゃないと遊びは成り立たないし、面白くも深くもならないから。
思いつきやご都合主義で設定をテキトーに変えてもいいなら、作品と視聴者との約束事も消えてしまいます。役作りの努力、丁寧な時代考証、田舎のロケ映像の説得力も意味がなくなります。