扱いの差は歴然だが、ともかくかつての「賊軍」にも眠る所が与えられているのに安堵させられる。
この薩軍墓地の南東の一角にある「熊本諸隊奮戦之処」という石碑の碑文が興味深い。政府軍を「東軍」、薩軍を「西軍」と呼んでいるのだ。執筆者の意図は想像する他ないが、この呼称をとると政治的な判定が失せ、両軍が対等になる。なんだか痛快だ。
碑の建立年月日は昭和11年3月15日。奇しくも、内戦の一歩手前までいった二・二六事件の直後だ。
田原坂の頂上には呆気なく着いた。南から、つまり熊本城方面から来る限り、ママチャリでも楽々上れる。より正確に言えば、ほとんど上らない。頂上には田原坂公園が広がり、弾痕の残った蔵や資料館、展望広場、そして両軍の全戦死者の氏名を記した慰霊之碑がある。
そこを見学するだけで引き返してしまってはいけない。問題の田原坂はその先なのだ。高低差およそ80m、長さ1.5kmほどのこの坂を陥すのに、政府軍はなぜ一日平均32万発もの弾薬を費消し、17日間も要したのか。
同じ疑問を当時後方で指揮を執っていた山縣有朋も抱いた。そして陥落直後に現場を視察した彼は「一夫之を守れば三軍も行く可からざるの地勢なり」と納得し、涙したという。
実際にママチャリで攻めてみよう。坂を下り、玉東町の戦跡を見てまわってから、今度は逆に政府軍目線で田原坂に挑む。
一の坂の途中でペダルをまわせなくなった。勾配はかなりきつい。押して歩くしかない。曲がりくねった坂道の両側は盛り上がり、時には人の背丈を上回るほどで、そこに鬱蒼と草木が茂っている。「両崖皆高くして街道は凹状を成し」という山縣の表現通りだ。その高みから薩摩軍が攻撃してくる、と思うと、群がる蚊ごときでうんざりしている私などは早々と戦意喪失だ。