数多くのスターを生み出し、日本中から注目されているフィギュアスケートだが、かつてはほとんど注目されない「マイナースポーツ」だった。テレビ中継など考えられない時代、スタイルがよく見栄えのいい欧米選手たちがリンクにたたずんだだけで、勝負あり。日本選手は滑る前に歯が立たない状態が続いた。
元五輪代表で全日本王者に3度輝き、息子の小塚崇彦(28才)を世界選手権第2位に導いた小塚嗣彦氏が言う。
「日本が初めてフィギュアで五輪に出場したのは、1932年のレークプラシッド大会の男子シングルです。欧米の選手とのあまりの実力差に、練習であっても一緒に滑るのが恥ずかしかったそう。夜中に、他国の選手たちが寝静まった頃、リンクで頭にライトをつけて練習したという逸話があるほど」
苦難の時代を経て1980年代に入ると、伊藤みどり(48才)という“希望の星”が出現する。ずば抜けたジャンプ力と高い技術を武器に、世界の大舞台に挑んだ彼女は1989年、日本人初となる世界選手権金メダルを獲得。小塚氏が当時を振り返る。
「当時、世界のトップスケーターは、ほとんどが欧米の選手で占められていました。でも、伊藤があれだけのジャンプを見せつけると、採点員も高得点を出さざるを得なくなります。難易度の高いジャンプを次々と、いとも簡単に跳んでみせた伊藤は、世界に強い衝撃を与え、国内でフィギュアが注目される大きなきっかけを作ったのです」
そうはいっても、フィギュアはまだ黎明期。立ちふさがる壁は大きかった。元五輪選手の渡部絵美さんが語る。
「大会のための渡航費が高く、海外のコーチに指導を仰ぐ費用も、連れてくる費用もありません。サポートすべきスケート連盟は、サラリーマンが手弁当で、お手伝いに来ている程度の雰囲気でした。金銭的な援助など、望むべくもなかった」
だが、伊藤は逆境にめげず、1989年に日本人初の世界女王に輝き、1992年のアルベールビル五輪銀メダルを獲得。また、女子選手として世界で初めてトリプルアクセルを跳んだ。