日本の「食」のレベルが世界でもトップクラスであることは論をまたないが、進化の余地もまだ残されている。食文化に詳しい編集・ライターの松浦達也氏が解説する。
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昨年の最後の本稿で「2017年は肉の多様化──選択肢の多様化が定着した年」だと書いた。では、2018年はどうなるか。例えばこの数年、ブームとなっている肉なら「文脈」や「必然性」が求められるようになってくるはずだ。
食べ物に「うまさ」が求められるのは世の常だが、これまでの肉は「さらなるうまさ」「希少性」という高い要求水準を満たすだけのインフレがぎりぎりで成立していた。国内外を問わず、知られざる肉も少なからずあったし、調理法も「もっとおいしくなる手法」があると(特に食べ手にとって)期待できる「伸びしろ」があると思われていた。
だが、メジャーメディアだけでなく、インターネットやSNSなどの充実のおかげで、多くの「知られざる肉」には光が当てられるようになった。調理の科学的アプローチも日常のものになり、ラーメン店のチャーシューや日常の食卓にも低温調理のような手法は浸透してしまっている。こうなると食べ手が「食」に幻想を抱くのは難しい。日本人は知っていることに幻想を抱くほど、能天気ではない。
そこで求められるのが文脈であり、背景であり、必然性だ。食べ物や素材に踏み込み、なぜその素材をその調理法で食べるのか。もはやおいしさは訴求ポイントではなく、前提になる。ヒントになるのは和食における「旬」だ。山海の素材をもっとも大量に、もっとも手軽に手にできるのが旬であり、日本人は巧みに和食という文脈に乗せてきた。「文脈食」は和食の延長線上にある。
仮に何かの調理法が残された肉となると「豚」だろう。牛肉はステーキの焼き加減を考えてもウェルダンからレア、ブルーなど食べ手もさまざまな食味を覚えている。店や家庭で提供されるローストビーフなどは、もはや首をひねりたくなる店を探すほうが難しい。店も家庭も、牛の肉焼きについてはこの数年で劇的にレベルアップしている。
しかし豚となると話は別。もともと日本の家庭では「茶色くなるまで加熱すべし」と教わってきた。ロゼ色の豚肉が世の中に受け入れられるようになったのは、本当にこの数年のことだ。それでも安全に食べられるよう、内部が一定の温度になるまで加熱しなければならないし、そこから少し温度を上げただけで、肉は驚くほど硬く、パサパサになってしまう。ギリギリの頃合いを狙うには技術が必要で、だからこそそこには隙間がある。