脚本家・橋田壽賀子氏の安楽死宣言以降、NHKや雑誌がこぞって特集を組むなど、日本でも安楽死容認論が高まってきた。65歳以上の高齢者が3500万人を超える日本にあって、終末期医療の一つの選択肢になり得るのか。
近著『遺言。』(新潮社刊)がベストセラーとなった養老孟司氏(80)は、解剖学者として数多の死に接してきた。国際情報誌・SAPIO連載にて世界の「安楽死現場」をルポし、このたび『安楽死を遂げるまで』(小学館)として上梓した宮下洋一氏(41)とともに、日本の安楽死議論から抜け落ちている視点を語りあった。
宮下:数多の死を見てきた先生にも、死は、一般化できないのでしょうか。
養老:はい。極論を言えば、人間には“知り合いの死”しかありません。現在だって、ご臨終の人は世界中に、何百人もいますよ。でもそれは、自分の生活に一切関係ない死。「本日の交通事故死者何名」と、警視庁は発表しますが、それと一緒で赤の他人の死です。
宮下:知り合いの死、養老先生の本では、“二人称の死”という言葉が用いられていますね。その意味で、私は、象徴的なエピソードを取材しました。1996年、京都の京北町で、地域医療を担う医師が、いまにも亡くなろうとしている末期癌患者に筋弛緩剤を投与して、死去させた事件がありました(*1)。直接手を下さなくても、じきに死を迎えたのに、なぜ医師はリスクをとったのか。
【*1 1996年、国保京北病院(京都)で医師が末期患者に筋弛緩剤を投与したことが判明。殺人容疑で書類送検されるが、投与した致死薬が患者の息の根を止めたか断定できず、嫌疑不十分で不起訴処分に】
医師にとって当初、患者は三人称の存在だった。でも苦しむ患者の側で家族が泣き叫ぶ姿をみて、それが二人称になった、と言うんです。だから安らかに死なせるために薬を投与したと。