ニュースのなかで、人の呼称をどうするか。「さん」づけなのか、呼び捨てなのか、身分をあらわす何かをつけるのか。評論家の呉智英氏が、現代の良識に照らし合わせてつけられた、報道のしかたによる奇妙な呼称について考察する。
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昨年十二月、気になる報道が続けて二つあった。気になったのは報道された事実ではなく、報道のしかたである。何でもない記述に現代の良識の亀裂が感じられる。
まず、十二月十九日の朝日新聞夕刊。「犯行時に少年 死刑執行」と見出しして、同日死刑執行された二人のうちの一人、関光彦死刑囚は、事件当時少年だったと報じている。記事の末尾には「おことわり」が付き「死刑が執行されたことを受け、実名での報道に切り替えます」「2004年、事件当時は少年でも、死刑が確定する場合」「実名で報道する方針」にした、とある。「社会復帰の可能性」がなくなったからだという。
この実名・匿名措置は、記事にもあるように少年法の趣旨に沿ったものだ。少年法への賛否は措くとして、現実に少年法がある以上、これは妥当だろう。私が気になったのは、そこではない。記事中に何度も出てくる「関光彦死刑囚」という「呼称」のことだ。
通常、名前の下に付く一種の接尾辞は「敬称」と言う。さん、君、殿などだ。役職や肩書でこれに代えることもある。教授、部長、議員などだ。こうした敬称を付けないのは失礼だ、さらには人権侵害だ、という奇怪な風潮が広まり、何でもかんでも敬称を付けるようになった。ついには死刑囚にまで敬称を付けなければならなくなり、だからといって犯罪者を敬う称もおかしいので「呼称」と言う便法が発案された。