「平成」は残り1年あまりとなった。天皇の譲位は、江戸時代後期の光格天皇以来、約200年ぶりとなる。国民にとっては「天皇」について考える機会が訪れているといえる。ベストセラー『違和感の正体』の著者で思想史研究家の先崎彰容氏が、「天皇」を読む7冊を紹介する。
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2016年8月8日、「象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば」が発表されると、我々日本人の心の中であらためて「天皇」が浮上した。「天皇」は、ふだんは心の奥深くに潜んでいるが、時代の節目になると顕在化し、大きな存在感を示す。そして、我々に問いを突きつける──日本と日本人のアイデンティティとは何なのか、と。つまり、「天皇」について考えることは、日本国と私たち国民のあり方を問うことなのだ。
では、先人たちはどう考えてきたか。敗戦直後と、1960年代末の政治の季節に発表されたものを中心に選んだ。
敗戦直後、天皇について賛否両論が噴出したとき、批判的に論じた代表が政治学者丸山眞男であり、その「超国家主義の論理と心理」(1)である。それは戦後論壇の記念碑的論文となった。丸山はナチスドイツのファシズムと戦前日本の「超国家主義」は決定的に異なるとした。ドイツの場合、ヒトラーら指導者層には戦争中の行為について明確な意思があり、それゆえ責任の所在も明確だ。一方、日本の場合、下位が上位に従う関係が連鎖し、世俗の最上位者たる首相は御簾の向こう側にひれ伏し、天皇その人もまた万世一系の権威と伝統によって物事を決定する。つまり、どこまで行っても「責任の主体」が見えてこない。その結果、日本は状況に流されて戦争に突入してしまったと、丸山は看破した。
独特の天皇論として読めるのが、小説家坂口安吾の評論「堕落論」(2)。特攻隊の生き残りは闇屋となり、夫を戦場に送った寡婦は次の男のことを考える。それを堕落と呼ぶなら、堕落こそ人間本来の姿だ、と安吾は言う。戦前の日本は天皇を担ぎ、天皇を拝んだ。そのように綺麗事の正義が社会を覆い尽くすことに、安吾は違和感を表明した。面白いのは、「天皇」に代わって戦後の正義となった「民主主義」にも懐疑を抱いていたことだ。また同時に、人間は弱く、正義に頼らざるを得ないことも安吾は見抜いていた。その点で左派の単純な天皇否定論とは明確に一線を画す。